もずが枯れ木で (^-^) 作詞:サトウハチロー(歌詞版)
もずが枯れ木で
一 もずが枯木で 鳴いている
おいらは藁を たたいてる
綿ひき車は お婆さん
コットン水車も まわってる
二 みんな去年と 同じだよ
けれども足りねえ ものがある
兄さの薪割る 音がねえ
バッサリ薪割る 音がねえ
三 兄さは満州へ 行っただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ
大穴牟遲はメディカルシャーマン! 稻羽の素うさぎ『古事記』
菟と鰐「大國主の神」古事記
かれこの大國主の神の兄弟八十神ましき。然れどもみな國は大國主の神に避りまつりき。避りし所以は、その八十神おのもおのも稻羽の八上比賣を婚はむとする心ありて、共に稻羽に行きし時に、大穴牟遲の神に帒を負せ、從者として率て往きき。ここに氣多の前に到りし時に、裸なる菟伏せり。ここに八十神その菟に謂ひて云はく、「汝爲まくは、この海鹽を浴み、風の吹くに當りて、高山の尾の上に伏せ」といひき。かれその菟、八十神の教のまにまにして伏しつ。ここにその鹽の乾くまにまに、その身の皮悉に風に吹き拆かえき。かれ痛みて泣き伏せれば、最後に來ましし大穴牟遲の神、その菟を見て、「何とかも汝が泣き伏せる」とのりたまひしに、菟答へて言さく「僕、淤岐の島にありて、この地に度らまくほりすれども、度らむ因なかりしかば、海の鰐を欺きて言はく、吾と汝と競ひて族の多き少きを計らむ。かれ汝はその族のありの悉率て來て、この島より氣多の前まで、みな列み伏し度れ。ここに吾その上を蹈みて走りつつ讀み度らむ。ここに吾が族といづれか多きといふことを知らむと、かく言ひしかば、欺かえて列み伏せる時に、吾その上を蹈みて讀み度り來て、今「地に下りむとする時に、吾、汝は我に欺かえつと言ひ畢れば、すなはち最端に伏せる鰐、我を捕へて、悉に我が衣服を剥ぎき。これに因りて泣き患へしかば、先だちて行でましし八十神の命もちて誨へたまはく、海鹽を浴みて、風に當りて伏せとのりたまひき。かれ教のごとせしかば、我が身悉に傷はえつ」とまをしき。ここに大穴牟遲の神、その菟に教へてのりたまはく、「今急くこの水門に往きて、水もちて汝が身を洗ひて、すなはちその水門の蒲の黄を取りて、敷き散して、その上に輾い轉びなば、汝が身本の膚のごと、かならず差えなむ」とのりたまひき。かれ教のごとせしかば、その身本の如くになりき。こは稻羽の素菟といふものなり。今には菟神といふ。かれその菟、大穴牟遲の神に白さく、「この八十神は、かならず八上比賣を得じ。帒を負ひたまへども、汝が命ぞ獲たまはむ」とまをしき。
ここに八上比賣、八十神に答へて言はく、「吾は汝たちの言を聞かじ、大穴牟遲の神に嫁はむ」といひき。
10月11日に秋の野路スミレを視とこうと保美へ行きました。高い処に1株が咲いていてズームで数ショットし、10月11日付でブログリました。で、そん時に撮った溝蕎麦をあげます。金平糖タイプが7割、赤みが強いタイプが3割でした。別々に写真5枚で貼ったとさ (^-^)
まず、金平糖タイプを3枚で組みました。狸ん家で普通に視るタイプです。ただ、咲いている花に会う機会は少なくて3枚目みたいな状態でパチってくることが多いです。この日は咲いているのを探し回り、数ショットしてきました。あっ、1枚目と2枚目に貼っておきました( ̄▽ ̄)V
赤みの強いタイプを2枚です。咲いた花だと同じようだけど、閉じてるときは感じが違います。なんか、色濃い大溝蕎麦なるお方もいるようだけど、葉の感じから溝蕎麦だと思います (^-^)
陰暦だと月が改まり長月「九月」朔日、新月です。月の出は 05:03、南中は 11:20、月の入は 17:28 とか。て、計算上の時刻です。新月は見えませんばい (^-^)
我が産土、土師神社の田んぼ道を歩いていたら電車がやってきました。即興だけど後ろに土師の杜と御荷鉾三山(東、西、鬼止気)が入り、空と雲はトビだけど、このくらいなら、まぁ…
さらに、県境の神流川に架かる藤武橋まで歩きました。水量が多いせいか、透けていて川底まで視えました。ありゃ小魚が群れとるばい。ウグイの産卵かなとグイとズームしたけど、なんだか分からん写りばい。で、そのまま赤城山を入れてパシャリと… 暑い秋の午後でした (^-^)
地元紙のアサギマダラ来訪に誘われて三本木から髙山、朝ケ谷と 90ショットほどしてきました。高山で撮った薬師草を2枚であげときます。あっ、2枚めのポトレは lightbox をアタッチしてません。スクロールして見てね (°-°;
三本木 ~ 高山 ~ 朝ヶ谷で90ショットほど。名をメモっときます 09.29 (^-^)
宮城野萩、彼岸花、小紫式部、秋野芥子、丸葉緀紅、柚香菊、白花秋桜、筑紫萩、現証拠、薬師草、男郎花、虎杖、白根川芎、藪豆、釣船草、黄花秋桐、関屋秋丁子、林檎、南天萩、橡、山薄荷、日本山梨、力芝、精霊飛蝗
ヤクシソウ「薬師草」 秋分/09.27 上州藤岡高山
酒田
羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、長山氏重行といふ武士の家に迎へられて、誹諧一巻あり。左吉もともに送りぬ。川舟に乗つて酒田の港に下る。淵庵不玉といふ医師の許を宿とす。
あつみ山や吹浦かけて夕涼み
暑き日を海に入れたり最上川
象潟
江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責む。酒田の港より東北のかた、山を越え礒を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、汐風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山隠る。闇中に模索して、「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色またたのもしきと、蜑の苫屋に膝を入れて、雨の晴るるを待つ。その朝、天よく晴れて、朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。まづ能因嶋に船を寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、向かうの岸に舟をあがれば、「花の上漕ぐ」とよまれし桜の老い木、西行法師の記念を残す。江上に御陵あり、神功后宮の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。このところに行幸ありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天をささへ、その影映りて江にあり。西はむやむやの関、路を限り、東に堤を築きて、秋田に通ふ道遥かに、海北にかまへて、波うち入るる所を汐越といふ。江の縦横一里ばかり、俤松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾むがごとし。寂しさに悲しびを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花
汐越や鶴脛ぬれて海涼し
祭礼
象潟や料理何食ふ神祭 曽良
美濃の国の商人
蜑の家や戸板を敷きて夕涼み 低耳
岩上に雎鳩の巣を見る
波越へぬ契りありてや雎鳩の巣 曽良
越後路
酒田の余波日を重ねて、北陸道の雲に望む、遙々の思ひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里と聞く。鼠の関を越ゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国市振の関に到る。この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさず。
文月や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天の河
多比良の栗畑 秋彼岸/09.21 上州吉井多比良
里の秋を3つ (^-^) 0:00 独唱、03:10 フルート、04:17 合唱
里の秋
一 静かな静かな里の秋
お背戸に木の実の
落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実 煮てます
囲炉裏ばた
二 明るい明るい星の空
鳴き鳴き夜鴨の
わたる夜は
ああ父さんの あの笑顔
栗の実 食べては
思い出す
三 さよならさよなら椰子の島
お舟にゆられて
帰られる
ああ父さんよ ご無事でと
今夜も 母さんと
祈ります
土手の彼岸花 2020/10/02 上州藤岡矢場
昨日(16日)のことです。食料調達して戻る途中に道路脇の花壇?で彼岸花を見かけました。緑のストローで大地の赤を吸い上げて噴水のごとくに命の象徴を撒き散らしているように見へました。で、もう、この20日が "お彼岸の入り" ですね。青空文庫テキスト『植物一日一題』牧野富太郎、から「万葉歌のイチシ」をあげときます (^-^)
寄物陳思「巻十一・二四八〇」柿本人麻呂歌集出
道の辺の壱師の花の いちしろく
人皆知りぬわが恋妻は
路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀攦
道ばたのイチシの花ではないが、はっきりと、世の人は皆知ってしまった。私の恋しい妻は、、、
万葉人の歌、それは『万葉集』巻十一に出ている歌に「みちのべのいちしのはなのいちじろく、ひとみなしりぬあがこひづまは」(路辺壱師花灼然、人皆知我恋孋)というのがある。そしてこの歌の中に詠みこまれている壱師ノ花とあるイチシとは一体全体どんな植物なのか。古来誰もその真物を言い当てたとの証拠もなく、徒らにあれやこれやと想像するばかりである。なぜなれば、現代では最早そのイチシの名が廃たれて疾くにこの世から消え去っているから、今その実物が掴めないのである。ゆえにいろいろの学者が単に想像を逞しくして暗中模索をやっているにすぎない。
甲の人はそれはシであるギシギシ「羊蹄」だといっている。乙の人はそれはメハジキのヤクモソウ(茺蔚すなわち益母草)だといっている。丙の人はそれはイチゴの類だといっている。 丁の人はクサイチゴだといっている。戌の人はそれはエゴノキだといっている。そして一向に首肯すべきその結論に到着していない。
そこで私もこの植物について一考してみた。初めもしやそれは諸方に多いケシ科のタケニグサすなわちチャンパギク「博落廻」ではないだろうかと想像してみた。この草は丈高く大形で、夏に草原、山原、路傍、圃地の囲回り、山路の左右などに多く生えて茂り、その茎の梢に高く抽んでている大形の花穂そのものは密に白色の細花を綴って立っており、その姿は遠目にさえも著しく見えるものである。だが私はそれよりも、もっともっとよいものを見つけて、ハッ! これだなと手を打った。すなわちそれはマンジュシャゲ「曼珠沙華の意」、一名ヒガンバナ「彼岸花の意」で、学名を Lycoris radiata Herb. と呼び、漢名を石蒜といい、ヒガンバナ科(マンジュシャゲ科)に属するいわゆる球根植物で襲重鱗茎(Tunicated Bulb)を地中深く有するものである。
さてこのヒガンバナが花咲く深秋の季節に、野辺、山辺、路の辺、河の畔りの土堤、山畑の縁などを見渡すと、いたるところに群集し、高く茎を立て並びアノ赫灼たる真紅の花を咲かせて、そこかしこを装飾している光景は、誰の眼にも気がつかぬはずがない。そしてその群をなして咲き誇っているところ、まるで火事でも起こったようだ。だからこの草には狐ノタイマツ、火焔ソウ、野ダイマツなどの名がある。すなわちこの草の花ならその歌中にある「灼然」の語もよく利くのである。また「人皆知りぬ」も適切な言葉であると受け取れる。ゆえに私は、この万葉歌の壱師すなわちイチシは多分疑いもなくこのヒガンバナすなわちマンジュシャゲの古名であったろうときめている。が、ただし現在何十もあるヒガンバナの諸国方言中にイチシに彷彿たる名が見つからぬのが残念である。どこからか出て来い、イチシの方言!
尾花沢
尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども、志卑しからず。都にも折々通ひて、さすがに旅の情をも知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。
涼しさをわが宿にしてねまるなり
這ひ出でよ飼屋が下の蟾の声
眉掃きを俤にして紅粉の花
蚕飼ひする人は古代の姿かな 曽良
立石寺
山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。梺の坊に宿借り置て、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音きこえず。岸を巡り、岩を這ひて仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
最上川
最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。ここに古き誹諧の種落ちこぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐり足して、新古ふた道に踏み迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻を残しぬ。このたびの風流ここに至れり。
最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいふ、恐ろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟危ふし。
五月雨を集めて早し最上川
出羽三山
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉といふ者を尋ねて、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎りして、憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊にをゐて誹諧興行。
ありがたや雪をかほらす南谷
五日、権現に詣づ。当山開闢能除大師はいづれの代の人といふことを知らず。延喜式に「羽州里山の神社」とあり。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「鳥の毛羽をこの国の貢に献る」と、風土記にはべるとやらん。月山・湯殿を合はせて三山とす。当寺、武江東叡に属して、天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かかげそひて、僧坊棟を並べ、修験行法を励まし、霊山霊地の験効、人貴びかつ恐る。繁栄長にして、めでたき御山と謂つつべし。
八日、月山に登る。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月行道の雲関に入るかと怪しまれ、息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没て月顕る。笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。
谷の傍に鍛治小屋といふあり。この国の鍛治、霊水を撰びて、ここに潔斎して劔を打ち、終に月山と銘を切って世に賞せらる。かの龍泉に剣を淬ぐとかや、干将・莫耶の昔を慕ふ。道に堪能の執あさからぬこと知られたり。岩に腰掛けてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばに開けるあり。降り積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花の心わりなし。炎天の梅花ここにかをるがごとし。行尊僧正の哥ここに思ひ出でて、猶あはれもまさりておぼゆ。総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よりて筆をとどめて記さず。
坊に帰れば、阿闍利の求めによりて、三山巡礼の句々、短冊に書く。
涼しさやほの三日月の羽黒山
雲の峰いくつ崩れて月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
湯殿山銭踏む道の涙かな 曽良
笹川沿いをぶらぶらしてます。陽射し燦々で眩しいくらい、それに暑いばい。湧き上がってる雲なんか夏の感じです。が、風に揺れるススキで、もう秋かなと… (^・^)
古今集 巻三 夏歌 168 水無月の晦の日よめる by 躬恒
夏と秋と行かふ空のかよひ路は かたへすゞしき風やふくらむ
小さい橋を渡り田んぼ周りを歩きだしたら畔からイナゴが飛び出してきました。て、イナゴなどとよんでみたけど本名は判りません。撮って憶える狸君です。昆虫たちはあまり撮ってなくて名は適当です。で、次にヤブツルアズキを撮りました。全国的には野小豆てなソックリさんもいるようですがこちらでは見かけません。たら、また、イナゴが飛び出してきました。と、想ってたけどモニターしたら、さっきのお方とはちょいと違うようです。ならばと画像検索してみました。たらね、トノサマバッタが近いように視えました。そんな名で貼っときましたとさ (^-^)
9月9日は陰暦だと八月「葉月」三日です。日没まじかになって食料調達にでました。たら、西南西の空に三日月が下りてました。さらに月の近くには宵の明星が輝いてましたとさ。 (^-^)
春はあけぼの… 夏は夜…
秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近くなりたるに、からすの寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫のねなど、はたいふべきにあらず。
冬はつとめて…『枕草子』より
06/0993 大伴坂上郎女の初月の歌
月立ちてただ三日月の眉根掻き
日長く恋ひし君に会へるかも
月立而 直三日月之 眉根掻 氣長戀之 君尓相有鴨
06/0994 大伴宿祢家持の初月の歌
振さけて若月見れば
一目見し人の眉引思ほゆるかも
振仰而 若月見者 一目見之 人乃眉引 所念可聞
瑞巌寺
十一日、瑞巌寺に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎、出家して入唐、帰朝の後開山す。その後に雲居禅師の徳化によりて、七堂甍改まりて、金壁荘厳光をかかやかし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。かの見仏聖の寺はいづくにやと慕はる。
石巻
十二日、平泉と心ざし、姉歯の松・緒絶の橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉兎蒭蕘の行きかふ道そことも分かず、終に道踏みたがへて、石巻といふ湊に出づ。「こがね花咲く」とよみて奉りたる金華山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立ち続けたり。思ひがけずかかる所にも来たれるかなと、宿借らんとすれど、さらに宿貸す人なし。漸まどしき小家に一夜を明かして、あくればまた知らぬ道まよひ行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野の萱原などよそ目に見て、遥かなる堤を行く。心細き長沼に添ふて、戸伊摩といふ所に一宿して、平泉にいたる。その間廿余里ほどとおぼゆ。
平泉
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曽良
かねて耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢となるべきを、四面新に囲みて、甍を覆ひて雨風を凌ぎ、しばらく千載の記念とはなれり。
五月雨の降り残してや光堂
尿前の関
南部道遥かに見やりて、岩手の里に泊まる。小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子の湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて舎りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。
蚤虱馬の尿する枕もと
あるじのいはく、これより出羽の国に大山を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。「さらば」といひて人を頼みはべれば、究境の若者、反脇指を横たへ、樫の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。今日こそ必ず危ふきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行く。あるじの云ふにたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜る行くがごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渡り、岩に蹶いて、肌に冷たき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せし男子の云ふやう、「この道かならず不用のことあり。恙なう送りまゐいらせて、仕合はせしたり」と、喜びて別れぬ。後に聞きてさへ、胸とどろくのみなり。
穂積皇子:家にありし櫃に鍵さし蔵めてし恋の奴の つかみかかりて
巻二・一一四 但馬皇女、高市皇子の宮に在す時
穂積皇子を思ほして作りませる歌一首
秋の田の穂向きの寄れる異よりに
君に寄りなな言痛かりとも
秋田之 穂向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母
秋の田の稲穂が一つ方向になびいている。そのなびきのようにただひたむきに、あなたに寄りそいたい。たとい噂がやかましくても
巻二・一一五 穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に
遣はす時、但馬皇女の作りませる歌一首
おくれ居て恋ひつつあらずは 追い及かむ
道の隈廻に標結へ わが背
遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢
あとに残ってこんなに恋い焦がれていないで、あなたのあとを追って行こう。どうか道の曲り角ごとにしるしを結びつけておいて下さい。あなた
巻二・一一六 但馬皇女、高市皇子の宮に在す時
竊かに穂積皇子に接ひて
事すでに形はれて作りませる歌一首
人言を繁み言痛み
己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る
人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡
人の噂がひどくやかましいので、生まれてまだ渡ったこともない朝の川を渡ることだ
↓ここから『万葉秀歌』斉藤茂吉です
人言をしげみ言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川わたる
「巻二・一一六」 但馬皇女
但馬皇女(天武天皇皇女)が穂積皇子(天武天皇第五皇子)を慕われた歌があって、「秋の田の穂向のよれる片寄りに君に寄りなな言痛かりとも」(巻二・一一四)の如き歌もある。この「人言を」の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、窃かに穂積皇子に接せられたのが露われた時の御歌である。
「秋の田の」の歌は上の句は序詞があって、技巧も巧だが、「君に寄りなな」の句は強く純粋で、また語気も女性らしいところが出ていてよいものである。「人言を」の歌は、一生涯これまで一度も経験したことの無い朝川を渡ったというのは、実際の写生で、実質的であるのが人の心を牽く。特に皇女が皇子に逢うために、秘かに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増すわけである。普通女が男の許に通うことは稀だからである。
○ ○
零る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の塞なさまくに
「巻二・二〇三」 穂積皇子
但馬皇女が薨ぜられた(和銅元年六月)時から、幾月か過ぎて雪の降った冬の日に、穂積皇子が遙かに御墓(猪養の岡)を望まれ、悲傷流涕して作られた歌である。皇女と皇子との御関係は既に云った如くである。吉隠は磯城郡初瀬町のうちで、猪養の岡はその吉隠にあったのであろう。「あはにな降りそ」は、諸説あるが、多く降ること勿れというのに従っておく。「塞なさまくに」は塞をなさんに、塞となるだろうからという意で、これも諸説がある。金沢本には、「塞」が「寒」になっているから、新訓では、「寒からまくに」と訓んだ。
一首は、降る雪は余り多く降るな。但馬皇女のお墓のある吉隠の猪養の岡にかよう道を遮って邪魔になるから、というので、皇子は藤原京(高市郡鴨公村)からこの吉隠(初瀬町)の方を遠く望まれたものと想像することが出来る。
皇女の薨ぜられた時には、皇子は知太政官事の職にあられた。御多忙の御身でありながら、或雪の降った日に、往事のことをも追懐せられつつ吉隠の方にむかってこの吟咏をせられたものであろう。この歌には、解釈に未定の点があるので、鑑賞にも邪魔する点があるが、大体右の如くに定めて鑑賞すればそれで満足し得るのではあるまいか。前出の、「君に寄りなな」とか、「朝川わたる」とかは、皆皇女の御詞であった。そして此歌に於てはじめて吾等は皇子の御詞に接するのだが、それは皇女の御墓についてであった。そして血の出るようなこの一首を作られたのであった。結句の「塞なさまくに」は強く迫る句である。
○ ○
今朝の朝け雁がね聞きつ春日山もみぢにけらし吾がこころ痛し
「巻八・一五一三」 穂積皇子
穂積皇子の御歌二首中の一つで、一首の意は、今日の朝に雁の声を聞いた、もう春日山は黄葉したであろうか。身に沁みて心悲しい、というので、作者の心が雁の声を聞き黄葉を聯想しただけでも、心痛むという御境涯にあったものと見える。そしてなお推測すれば但馬皇女との御関係があったのだから、それを参考するとおのずから解釈出来る点があるのである。何れにしても、第二句で「雁がね聞きつ」と切り、第四句で「もみぢにけらし」と切り、結句で「吾が心痛し」と切って、ぽつりぽつりとしている歌調はおのずから痛切な心境を暗指するものである。前の志貴皇子の「石激る垂水の上の」の御歌などと比較すると、その心境と声調の差別を明らかに知ることが出来るのである。もう一つの皇子の御歌は、「秋萩は咲きぬべからし吾が屋戸の浅茅が花の散りぬる見れば」(巻八・一五一四)というのである。なお、近くにある、但馬皇女の、「言しげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを」(同・一五一五)という御歌がある。皇女のこの御歌も、穂積皇子のこの御歌と共に読味うことが出来る。共に恋愛情調のものだが、皇女のには甘く逼る御語気がある。
巻十六・三八一六 穂積皇子の御歌一首
家にありし櫃に鍵刺し蔵めてし恋の奴の
つかみかかりて
家尓有之 櫃尓鏁刺 蔵而師 戀乃奴之 束見懸而
家にあった櫃に鍵をかけて、しまっておいた恋の奴が、私につかみかかって苦しめることだ
◎左注に、右の歌一首は、穂積親王、宴飲の日にして、酒酣なる時に、好みてこの歌を誦して、以て恒の賞と為したまひき
14文字です「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」どう読むか…
まず、常用の『現代語訳 対照 万葉集』桜井満から…
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣
吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
莫囂円隣之大相七兄爪謁気
わが背子がい立たせりけむ厳橿がもと
紀の温泉に幸しし時、額田王の作る歌
雑歌「巻一・九」
莫囂圓隣歌は集中第一の難訓歌で、伊丹末雄『万葉集難訓考』によると、九十ほどの説があるという。最近も、松本清張が「宮人にかこまれ遠し紀伊に行くわが背子立ちけむ厳橿が本」(文芸春秋第五十一巻第八号)と試みられたが、「紀伊」はキイではなく、キでなくてはならないので、五・七・四・八・七となり、落ちつかない。未だ従うべき説はないので、現代の主な試訓をあげて置く。なお三句以下を記さないものは「ワガセコガイタタセリケムイツカシガモト」と訓む。
畝傍の浦西詰に立つ 宮嶋弘『万葉雑記』
静まりし雷な鳴りそね 土橋利彦『海青篇』
夕月の影踏みて立つ 伊丹末雄『万葉集難訓考』
静まりし浦浪さわく 沢瀉久孝『万葉集注釈』
勾のたぶし見つつ行け吾が背子がい立たしけむいつかしが本 土屋文明『万葉集私注』
木綿取りし祝鎮むる吾が背子が射て立たすがね厳橿が本 谷繁『額田姫王』
まが環の装ひ七瀬の川にゆららに、わが背子しい立たせりけむ厳橿が本 阪口保『万葉林散策』
『万葉秀歌』斉藤茂吉
紀の国の山越えて行け
吾が背子がい立たせりけむ厳橿がもと
「巻一・九」額田王
紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之、射立為兼、五可新何本」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂っていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿が本」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿は厳かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以二倭姫命一為二御杖一貢二奉於天照大神一是以倭姫命以二天照大神ヲ一鎮二坐磯城ノ厳橿之本一とあり、古事記雄略巻に、美母呂能、伊都加斯賀母登、加斯賀母登、由由斯伎加母、加志波良袁登売、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、橿原の畝火の山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。考頭注に、「このかしは神の坐所の斎木なれば」云々。古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。
さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、古兄氐湯気だとした。考に云、「こはまづ神武天皇紀に依に、今の大和国を内つ国といひつ。さて其内つ国を、こゝに囂なき国と書たり。同紀に、雖辺土未清余妖尚梗而、中洲之地無風塵てふと同意なるにて知ぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国を差也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃と訓べし。又右の紀に、辺土と中州を対云しに依ては、此五字を外つ国のとも訓べし。然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは此哥にかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、猶上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは荷田大人のひめ哥也。さて此哥の初句と、斉明天皇紀の童謡とをば、はやき世よりよく訓人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田信名宿禰に伝へられき。其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家に問に、全く古大人の訓に均しといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功も徒に成なんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「傍国の可怜国なり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。
古義では、「三室の大相土見乍湯家吾が背子がい立たしけむ厳橿が本」と訓み、奠器円レ隣でミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登を参考とした。そして真淵説を、「紀ノ国の山を超て何処に行とすべけむや、無用説といふべし」と評したが、併しこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田久老が信濃漫録で云ったその模倣である。真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。この訓は何処か弛んでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。「吾が背子」は、或は大海人皇子(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。
秋の七草の葛花ですが、ここのは淡い桃色をしています。てか、朱鷺のような色をしている花です。なんで以前からトキイロクズとよんでいます。シロバナクズとよばれている花と同じかも知れんけどシロバナには見えませんじゃ (゚o゚;
あっ、パチリはついさっきです。小雨が降っていて20℃くらいしかなく、涼しいを通り越して寒いばい。が、辺りに甘い香りがただよっていました。普通の葛花と同じで葛根湯の原料になるかもよ。ちゅうても狸ん家だと、ここでしか観られないトキイロクズです。そっとしておいてください。9月1日、嬉しいことがありました。あんがとヤマモトさん。記念の即アゲ _(._.)_
西行 さらにまたそり橋渡すここちして をふさかかれる葛城の峰
東歌 伊香保ろのやさかのゐでに立つ虹の 顕はろまでもさ寝をさ寝てば
西行 残集 31
月あかかりけるに池にかわづのなきけるをききて
さ夜ふけて月にかはづの声聞けば
汀もすゞし池のうき草
夜が深まり明るい月の光にカエルが鳴くのを聞いていると、水際も池の浮草も涼しそうで、立派な邸宅と実感されました。家誉め歌か…
西行 残集 32
高野に参りけるに葛城の山に虹のたちたるをみて
さらに又そり橋渡す心地して
をぶさかかれる葛城の峰
一言主の神が、役行者に命じられて途中までかけたという岩橋の上に、もうひとつ反り橋を渡したような大きく美しい虹が葛城山にかかっている
万葉集 巻十四 3414 東歌・上野國歌 相聞
伊香保ろの八尺の堰塞に立つ虹の
顕はろまでも さ寝をさ寝てば
伊香保呂能 夜左可能為提尓 多都努自能
安良波路萬代母 佐祢乎佐祢弖婆
伊香保の大きな堰にあざやかに顕れる虹のように、人目につくくらいまで、ずっとお前と寝ていられたらな…
魂合はば相寝るものを小山田の鹿猪田守るごと母し守らすも [母が守らしし]
母系社会の母と娘のバトル短歌です ( ̄ ̄□ ̄ ̄;) 語り&解説 上野誠教授
巻十二 3000
霊合者 相宿物乎 小山田之
鹿猪田禁如 母之守為裳
「一云 母之守之師」
魂合はば
相寝るものを
小山田の
鹿猪田守るごと
母し守らすも
「一に云はく、母が守らしし」
二人の魂が合えば一緒に寝ようものを…
山の田んぼを荒らす鹿や猪を見張るように母が私を監視していらっしゃることよ
買い食いにコンビニへ。たら、文月十八日の月が空高く昇ってました。まだ生きてます (^-^)
春日山霞たなびき心ぐく照れる月夜にひとりかも寝む 坂上大嬢
月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をぞせし行かまくを欲り 大伴家持
巻四・七三五
坂上大嬢、家持に贈る歌一首
春日山霞たなびき 心ぐく照れる月夜に ひとりかも寝む
春日山 霞多奈引 情具久 照月夜尓 獨鴨念
春日山に霞がたなびいて、ぼんやりと照っている月夜に、独り淋しく寝ることであろうか
巻四・七三六
家持、坂上大嬢に和する歌一首
月夜には門に出で立ち 夕占問ひ足卜をぞせし行かまくを欲り
月夜尓波 門尓出立 夕占問 足卜乎曽為之 行乎欲焉
月のある晩には門口に出て、夕占をしたり足卜をしたことである。あなたのところに行きたいと思って
わが里に大雪降れり 大原の古りにし里に降らまくは後 by 天武天皇
朗読&解説 佐々木教授
わが岡の靈神に言ひて降らしめし雪の摧けし其処に散りけむ by 大原夫人
明日香清御原宮御宇天皇代
天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇
天皇賜藤原夫人御歌
吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後
藤原夫人奉和歌
吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武
天皇、藤原夫人に賜う歌
我が里に
大雪降れり
大原の
古りにし里に
降らまくは後
天武天皇
巻二102
藤原夫人の和せ奉る歌
我が岡の
龗に言ひて
降らしめし
雪のくだけし
そこに散りけむ
藤原夫人
巻二103
わが里に/わが岡の/贈答歌『万葉秀歌』斉藤茂吉
わが里に 大雪降れり
大原の 古りにし里に 降らまくは後
天武天皇が藤原夫人に賜わった御製である。藤原夫人は鎌足の女、五百重娘で、新田部皇子の御母、大原大刀自ともいわれた方である。夫人は後宮に仕える職の名で、妃に次ぐものである。大原は今の高市郡飛鳥村小原の地である。
一首は、こちらの里には今日大雪が降った、まことに綺麗だが、おまえの居る大原の古びた里に降るのはまだまだ後だろう、というのである。
天皇が飛鳥の清御原の宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところに贈られたのだが、謂わば即興の戯れであるけれども、親しみの御語気さながらに出ていて、沈潜して作る独詠歌には見られない特徴が、また此等の贈答歌にあるのである。然かもこういう直接の語気を聞き得るようなものは、後世の贈答歌には無くなっている。つまり人間的、会話的でなくなって、技巧を弄した詩になってしまっているのである。
○ ○
わが岡の 靈神に言ひて 降らしめし
雪の摧し 其処に散りけむ
藤原夫人が、前の御製に和え奉ったものである。靈神というのは支那ならば竜神のことで、水や雨雪を支配する神である。一首の意は、陛下はそうおっしゃいますが、そちらの大雪とおっしゃるのは、実はわたくしが岡の靈神に御祈して降らせました雪の、ほんの摧けが飛ばっちりになったに過ぎないのでございましょう、というのである。御製の揶揄に対して劣らぬユウモアを漂わせているのであるが、やはり親愛の心こまやかで棄てがたい歌である。それから、御製の方が大どかで男性的なのに比し、夫人の方は心がこまかく女性的で、技巧もこまかいのが特色である。歌としては御製の方が優るが、天皇としては、こういう女性的な和え歌の方が却って御喜になられたわけである。
あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る 額田王
むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 皇太子
『万葉集 巻第一』天皇遊猟蒲生野時額田王作歌
20あかねさす 紫野行き 標野行き
野守は見ずや 君が袖振る
茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
天智天皇が近江の蒲生野に遊猟「薬猟」したもうた時(天皇七年五月五日)、皇太子(大皇弟、大海人皇子)諸王・内臣・群臣が皆従った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。額田王ははじめ大海人皇子に婚い十市皇女を生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍していた。この歌は、そういう関係にある時のものである。「あかねさす」は紫の枕詞。「紫野」は染色の原料として紫草を栽培している野。「標野」は御料地として濫りに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。「野守」はその御料地の守部即ち番人である。
一首の意は、お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。それが不安心でございます、というのである。
この「野守」に就き、或は天智天皇を申し奉るといい、或は諸臣のことだといい、皇太子の御思い人だといい、種々の取沙汰があるが、其等のことは奥に潜めて、野守は野守として大体を味う方が好い。また、「野守は見ずや君が袖ふる」をば、「立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか」とうながすように解する説もある。「袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよなよとをかしげなるをいふ」(攷證)。「わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。われは見るからにゑましきにとなり」(講義)等である。併し、袖振るとは、「わが振る袖を妹見つらむか」(人麿)というのでも分かるように、ただの客観的な姿ではなく、恋愛心表出のための一つの行為と解すべきである。
この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、甘美な媚態をも感じ得るのである。「野守は見ずや」と強く云ったのは、一般的に云って居るようで、寧ろ皇太子に愬えているのだと解して好い。そういう強い句であるから、その句を先きに云って、「君が袖振る」の方を後に置いた。併しその倒句は単にそれのみではなく、結句としての声調に、「袖振る」と止めた方が適切であり、また女性の語気としてもその方に直接性があるとおもうほど微妙にあらわれて居るからである。甘美な媚態云々というのには、「紫野ゆき標野ゆき」と対手の行動をこまかく云い現して、語を繰返しているところにもあらわれている。一首は平板に直線的でなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つようになった。先進の注釈書中、この歌に、大海人皇子に他に恋人があるので嫉ましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戯れに諭すような分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美な愬えに触れたためであろう。
「袖振る」という行為の例は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(巻二・一三二)、「凡ならばかもかも為むを恐みと振りたき袖を忍びてあるかも」(巻六・九六五)、「高山の岑行く鹿の友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」(巻十一・二四九三)などである。
『万葉集 巻第一』(天皇遊猟蒲生野時額田王作歌)
皇太子答御歌
21紫草の にほへる妹を 憎くあらば
人嬬ゆゑに あれ恋ひめやも
紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
右(二〇)の額田王の歌に対して皇太子(大海人皇子、天武天皇)の答えられた御歌である。 一首の意は、紫の色の美しく匂うように美しい妹(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋する筈はないではないか。そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。
この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからと云って」というのでなく、「人妻に由って恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひ痩せぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉に甚だ多い。恋人を花に譬えたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。
この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、然かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「憎くあらなくに」、「憎からなくに」の例もある。この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌には縦い切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。
オキナグサ『植物知識』牧野富太郎
春に山地に行くと、往々オキナグサという、ちょっと注意を惹く草に出逢う。全体に白毛を被っていて白く見え、他の草とはその外観が異っているので、おもしろく且つ珍しく感ずる。葉は分裂しており、株から花茎が立ち十数センチメートルの高さで花を着けている。花は点頭して横向きになっており、日光が当たると能く開く。花の外面に多くの白毛が生じており、六片の花片(実は萼片であって花弁はなく、萼片が花弁状をなしている)の内面は色が暗紫赤色を呈している。花内に多雄蕊と多雌蕊とがある。わが邦の学者はこの草を漢名の白頭翁だとしていたが、それはもとより誤りであった。この白頭翁はオキナグサに酷似した別の草で、それは中国、朝鮮に産し、まったくわが日本には見ない。ゆえに右日本のオキナグサを白頭翁に充てるのは悪い。
さてこの草をなぜオキナグサ、すなわち翁草というかというと、それはその花が済んで実になると、それが茎頂に集合し白く蓬々としていて、あたかも翁の白頭に似ているから、それでオキナグサとそう呼ぶのである。この蓬々となっているのは、その実の頂にある長い花柱に白毛が生じているからである。
この草には右のオキナグサのほかになおたくさんな各地の方言があって、シャグマグサ、オチゴバナ、ネコグサ、ダンジョウドノ、ハグマ、キツネコンコン、ジイガヒゲ、ゼガイソウもその内の名である。右のゼガイソウは、すなわち善界草で、これは謡曲にある赤態を着けた善界坊から来た名である。
『万葉集』にこの草を詠み込んである歌が一つある。すなわちそれは、
芝付の美宇良崎なるねつこぐさ
相見ずあらば我恋ひめやも
である。そしてこのネツコグサは、ネコグサの意で、オキナグサを指している。花に白毛が多いので、それで猫草といったものだ。
このオキナグサは山野の向陽地に生じ、春早く開花するので、子女などに親しまれ、その花を採って遊ぶのである。葉は花後に大きくなる。根は多年生で肥厚しており、毎年その株の頭部から花、葉が萌出するのである。
この草はキツネノボタン科に属し、その学名を Anemone cernua Thunb. とも、また Pulsatilla cernua Spreng. ともいわれる。そしてその種名の cernua は点頭、すなわち傾垂の意で、それはその花の姿勢に基づいて名づけたものだ。