2021年10月24日

モズのオスかな

モズ「百舌鳥」 霜降/10.24 上州藤岡寺山

 もずが枯れ木で (^-^) 作詞:サトウハチロー(歌詞版)

もずが枯れ木で

一 もずが枯木で 鳴いている

おいらはわらを たたいてる
綿ひき車は お婆さん
コットン水車も まわってる

二 みんな去年と 同じだよ

けれども足りねえ ものがある
あんさのまき割る 音がねえ
バッサリ薪割る 音がねえ

三 兄さは満州へ 行っただよ

鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ

2021年10月18日

メディカルシャーマン大穴牟遲/古事記

ガマ「蒲」 寒露/10.18 上州藤岡矢場 ガマ「蒲」 寒露/10.18 上州藤岡矢場 ガマ「蒲」 寒露/10.18 上州藤岡矢場

 大穴牟遲はメディカルシャーマン!! 稻羽の素うさぎ『古事記』

菟と鰐「大國主の神」古事記

 かれこの大國主の神の兄弟はらから八十やそ神ましき。然れどもみな國は大國主の神にりまつりき。避りし所ゆゑは、その八十神おのもおのも稻羽いなば八上やかみ比賣をよばはむとする心ありて、共に稻羽に行きし時に、大穴牟遲おほあなむぢの神にふくろを負せ、從者ともびととしてて往きき。ここに氣多けたさきに到りし時に、あかはだなるうさぎ伏せり。ここに八十神その菟に謂ひて云はく、「いましまくは、この海鹽うしほを浴み、風の吹くに當りて、高山の尾の上に伏せ」といひき。かれその菟、八十神の教のまにまにして伏しつ。ここにその鹽の乾くまにまに、その身の皮悉に風に吹きかえき。かれ痛みて泣き伏せれば、最後いやはてに來ましし大穴牟遲の神、その菟を見て、「何とかも汝が泣き伏せる」とのりたまひしに、菟答へて言さく「あれ淤岐おきの島にありて、このくにに度らまくほりすれども、度らむよしなかりしかば、海の鰐を欺きて言はく、われいましと競ひてやからの多き少きを計らむ。かれ汝はその族のありのことごとて來て、この島より氣多けたさきまで、みなみ伏し度れ。ここに吾その上を蹈みて走りつつ讀み度らむ。ここに吾が族といづれか多きといふことを知らむと、かく言ひしかば、欺かえてみ伏せる時に、吾その上を蹈みて讀み度り來て、今「つちに下りむとする時に、吾、いましは我に欺かえつと言ひをはれば、すなはち最端いやはてに伏せる鰐、あれを捕へて、悉に我が衣服きものを剥ぎき。これに因りて泣き患へしかば、先だちて行でましし八十神の命もちてをしへたまはく、海鹽うしほを浴みて、風に當りて伏せとのりたまひき。かれ教のごとせしかば、が身悉にそこなはえつ」とまをしき。ここに大穴牟遲の神、その菟に教へてのりたまはく、「今くこの水門みなとに往きて、水もちて汝が身を洗ひて、すなはちその水門のかまはなを取りて、敷き散して、その上にまろびなば、汝が身本のはだのごと、かならずえなむ」とのりたまひき。かれ教のごとせしかば、その身本の如くになりき。こは稻羽いなば素菟しろうさぎといふものなり。今には菟神といふ。かれその菟、大穴牟遲の神に白さく、「この八十神は、かならず八上やがみ比賣を得じ。ふくろを負ひたまへども、汝が命ぞ獲たまはむ」とまをしき。

 ここに八上やがみ比賣、八十神に答へて言はく、「吾は汝たちの言を聞かじ、大穴牟遲の神にはむ」といひき。

2021年10月15日

白花サクラタデかも

白花サクラタデ 寒露/10.15 上州藤岡本郷 白花サクラタデ 寒露/10.15 上州藤岡本郷 白花サクラタデ 寒露/10.15 上州藤岡本郷

近くの田んぼでも稲刈りの最盛期です。機械化がすすんでいて、即、袋詰めが普通のようです。で、稲刈り時季になると用水路脇などで桜蓼サクラタデらしき花を見かけるようになります。今季こそ同定しようと昨日今日と40ショットほどしてきました (^-^)

候補は桜蓼か白花シロバナサクラタデかなんだけど… 決め手なしで今回も同定できません。ただ、以前に見た桜蓼より小さい花のように感じました。で、「白花サクラタデかも」としときました。あいかはらず分類を苦手としている狸君ですとさ _(._.)_

2021年10月13日

ミゾソバ/10.11 保美

ミゾソバ「溝蕎麦」 寒露/10.11 上州藤岡保美 ミゾソバ「溝蕎麦」 寒露/10.11 上州藤岡保美 ミゾソバ「溝蕎麦」 寒露/10.11 上州藤岡保美

10月11日に秋の野路ノジスミレを視とこうと保美ほみへ行きました。高い処に1株が咲いていてズームで数ショットし、10月11日付でブログリました。で、そん時に撮った溝蕎麦ミゾソバをあげます。金平糖タイプが7割、赤みが強いタイプが3割でした。別々に写真5枚で貼ったとさ (^-^)

まず、金平糖タイプを3枚で組みました。狸ん家で普通に視るタイプです。ただ、咲いている花に会う機会は少なくて3枚目みたいな状態でパチってくることが多いです。この日は咲いているのを探し回り、数ショットしてきました。あっ、1枚目と2枚目に貼っておきました( ̄▽ ̄)V

ミゾソバ「溝蕎麦」 寒露/10.11 上州藤岡保美 ミゾソバ「溝蕎麦」 寒露/10.11 上州藤岡保美

赤みの強いタイプを2枚です。咲いた花だと同じようだけど、閉じてるときは感じが違います。なんか、色濃い大溝蕎麦オオミゾソバなるお方もいるようだけど、葉の感じから溝蕎麦だと思います (^-^)

2021年10月11日

秋の野路スミレ

ノジスミレ「野路スミレ」  寒露/10.11 上州藤岡保美 ノジスミレ「野路スミレ」  寒露/10.11 上州藤岡保美

物臭狸から出版の知らせがありました。\(^o^)/バンザーイ \(^O^)/ヤッター
いろいろあってバテギミ狸ですが、晴れてるし野路ノジスミレなら咲いてるだろうと、保美まで行ってきました。朔果さくかを持っていて、種を弾き飛ばし中の野路スミレは3株ほどいましたが、花をつけているのは1株しか見つかりません。しかも切通の上の方でヨリは無理です。しょうがないんでズームで撮ってきました。距は判らんけど花茎や葉の毛と翼は見えてます。そのうちにまた行ってみます。ヽ (´ー`)┌

2021年10月6日

土師の杜と御荷鉾山、神流川

田んぼに土師の杜と御荷鉾山 秋分/10.06 上州藤岡本郷 神流川 秋分/10.06 上州藤岡小林 神流川 秋分/10.06 上州藤岡小林

陰暦だと月が改まり長月ながつき「九月」朔日ついたち、新月です。月の出は 05:03、南中は 11:20、月の入は 17:28 とか。て、計算上の時刻です。新月は見えませんばい (^-^)

我が産土うぶすな土師どし神社の田んぼ道を歩いていたら電車がやってきました。即興だけど後ろに土師の杜と御荷鉾みかぼ三山(東、西、鬼止気オドケ)が入り、空と雲はトビだけど、このくらいなら、まぁ…

さらに、県境の神流川かんながわに架かる藤武橋とうぶばしまで歩きました。水量が多いせいか、透けていて川底まで視えました。ありゃ小魚が群れとるばい。ウグイの産卵かなとグイとズームしたけど、なんだか分からん写りばい。で、そのまま赤城山を入れてパシャリと… 暑い秋の午後でした (^-^)

2021年9月27日

ヤクシソウ「薬師草」/高山

ヤクシソウ「薬師草」 秋分/09.27 上州藤岡高山

地元紙のアサギマダラ来訪に誘われて三本木から髙山、朝ケ谷と 90ショットほどしてきました。高山で撮った薬師草を2枚であげときます。あっ、2枚めのポトレは lightbox をアタッチしてません。スクロールして見てね (°-°;

三本木 ~ 高山 ~ 朝ヶ谷で90ショットほど。名をメモっときます 09.29 (^-^)
宮城野萩みやぎのはぎ彼岸花ヒガンバナ小紫式部コムラサキ秋野芥子アキノノゲシ丸葉緀紅マルバルコウ柚香菊ユウガギク、白花秋桜コスモス筑紫萩ツクシハギ現証拠ゲンノショウコ薬師草ヤクシソウ男郎花オトコエシ虎杖イタドリ白根川芎シラネセンキュウ藪豆ヤブマメ釣船草ツリフネソウ黄花秋桐キバナアキギリ関屋秋丁子セキヤノアキチョウジ林檎リンゴ南天萩ナンテンハギクヌギ山薄荷ヤマハッカ、日本山梨ヤマナシ力芝チカラシバ精霊飛蝗ショウリョウバッタ

ヤクシソウ「薬師草」 秋分/09.27 上州藤岡高山

ヤクシソウ「薬師草」 秋分/09.27 上州藤岡高山

2021年9月25日

酒田 ~ 越後路/8 奥の細道

奥の細道図

酒田

 羽黒を立ちて、つるをかの城下、長山氏重行ながやまうじじゅうかうといふ武士もののふの家にむかへられて、誹諧一巻ひとまきあり。左吉もともに送りぬ。川舟に乗つて酒田の港に下る。淵庵不玉えんあんふぎょくといふ医師くすしもとを宿とす。


  あつみ山や吹浦ふくうらかけて夕すゞ


  暑き日を海にれたり最上川


象潟

 江山こうざん水陸の風光かずくして、今象潟きさがた方寸ほうすんむ。酒田の港より東北のかた、山を越えいそを伝ひ、いさごをみて、そのさい十里、日影ややかたぶくころ、汐風真砂まさごを吹き上げ、雨朦朧もうろうとして鳥海ちょうかいの山かくる。闇中あんちゅうに模索して、「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色せいしょくまたたのもしきと、あま苫屋とまやひざを入れて、雨の晴るるを待つ。そのあした、天よく晴れて、朝日はなやかにさしづるほどに、象潟きさかたに舟をかぶ。まづ能因嶋のういんじまに船をせて、三年幽居の跡をとぶらひ、かうのきしに舟をあがれば、「花の上ぐ」とよまれし桜の西行さいぎょう法師の記念かたみのこす。江上かうしゃう御陵みささぎあり、神功后宮じんぐうこうぐう御墓みはかといふ。寺を干満珠寺かんまんじゅじといふ。このところに行幸みゆきありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈ほうぢょうに座してすだれけば、風景一眼のうちに尽きて、南に鳥海、天をささへ、その影うつりて江にあり。西はむやむやの関、みちかぎり、東に堤をきづきて、秋田にかよふ道はるかに、海北にかまへて、波うち入るる所を汐越しほごしといふ。江の縦横じゅうおう一里ばかり、おもかげ松島にかよひて、またことなり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しびをくはへて、地勢たましひなやますに似たり。


  象潟や雨に西施せいしがねぶの花


  汐越やつるはぎぬれて海涼し


    祭礼


  象潟や料理何ふ神祭      曽良


美濃の国の商人

  あまや戸板を敷きて夕涼ゆうすゞみ   低耳ていじ


    岩上がんじやう雎鳩みさごの巣を


  波へぬちぎりありてや雎鳩みさごの巣  曽良


越後路

 酒田さかた余波なごり日をかさねて、北陸道ほくろくどうの雲にのぞむ、遙々ようようおもむねをいたましめて加賀かがまで百卅里ひゃくさんじゅうりと聞く。ねずの関をゆれば、越後えちごの地に歩行あゆみあらためて、越中えっちゅうの国市振いちぶりせきいたる。このかん九日ここのか暑湿しょしつろうしんなやまし、やまいおこりてことをしるさず。


  文月ふみづき六日むいかつねの夜には


  荒海あらうみや佐渡さどによこたふあまがわ


2021年9月21日

実りの栗/唱歌・里の秋

多比良の栗畑

多比良の栗畑 秋彼岸/09.21 上州吉井多比良

 里の秋を3つ (^-^) 0:00 独唱、03:10 JazzPiano、06:52 合唱

里の秋

一 静かな静かな里の秋

お背戸に木の実の
落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実 煮てます
囲炉裏いろりばた

二 明るい明るい星の空

鳴き鳴き夜鴨の
わたる夜は
ああ父さんの あの笑顔
栗の実 食べては
思い出す

三 さよならさよなら椰子の島

お舟にゆられて
帰られる
ああ父さんよ ご無事でと
今夜も 母さんと
祈ります

2021年9月17日

万葉歌のイチシ『植物一日一題』牧野富太郎

ヒガンバナ

土手の彼岸花 2020/10/02 上州藤岡矢場

昨日(16日)のことです。食料調達して戻る途中に道路脇の花壇?で彼岸花ヒガンバナを見かけました。緑のストローで大地の赤を吸い上げて噴水のごとくに命の象徴を撒き散らしているように見へました。で、もう、この20日が "お彼岸の入り" ですね。青空文庫テキスト『植物一日一題』牧野富太郎、から「万葉歌のイチシ」をあげときます (^-^)

寄物陳思「巻十一・二四八〇」柿本人麻呂歌集出


みち壱師いちしの花の いちしろく
人皆知りぬわが恋妻こひづま


路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀攦


道ばたのイチシの花ではないが、はっきりと、世の人は皆知ってしまった。私の恋しい妻は、、、



 万葉人の歌、それは『万葉集』巻十一に出ている歌に「みちのべのいちしのはなのいちじろく、ひとみなしりぬあがこひづまは」(路辺壱師花灼然、人皆知我恋孋)というのがある。そしてこの歌の中に詠みこまれている壱師ノ花とあるイチシとは一体全体どんな植物なのか。古来誰もその真物を言い当てたとの証拠もなく、徒らにあれやこれやと想像するばかりである。なぜなれば、現代では最早そのイチシの名が廃たれて疾くにこの世から消え去っているから、今その実物が掴めないのである。ゆえにいろいろの学者が単に想像を逞しくして暗中模索をやっているにすぎない。

 甲の人はそれはシであるギシギシ「羊蹄」だといっている。乙の人はそれはメハジキのヤクモソウ(茺蔚ジュウイすなわち益母草)だといっている。丙の人はそれはイチゴの類だといっている。 丁の人はクサイチゴだといっている。戌の人はそれはエゴノキだといっている。そして一向に首肯すべきその結論に到着していない。

 そこで私もこの植物について一考してみた。初めもしやそれは諸方に多いケシ科のタケニグサすなわちチャンパギク「博落廻」ではないだろうかと想像してみた。この草は丈高く大形で、夏に草原、山原、路傍、圃地の囲回り、山路の左右などに多く生えて茂り、その茎の梢に高く抽んでている大形の花穂そのものは密に白色の細花を綴って立っており、その姿は遠目にさえも著しく見えるものである。だが私はそれよりも、もっともっとよいものを見つけて、ハッ! これだなと手を打った。すなわちそれはマンジュシャゲ「曼珠沙華の意」、一名ヒガンバナ「彼岸花の意」で、学名を Lycoris radiata Herb. と呼び、漢名を石蒜セキサンといい、ヒガンバナ科(マンジュシャゲ科)に属するいわゆる球根植物で襲重鱗茎しゅうじゅうりんけい(Tunicated Bulb)を地中深く有するものである。

 さてこのヒガンバナが花咲く深秋の季節に、野辺、山辺、路の辺、河の畔りの土堤、山畑の縁などを見渡すと、いたるところに群集し、高く茎を立て並びアノ赫灼かくしゃくたる真紅の花を咲かせて、そこかしこを装飾している光景は、誰の眼にも気がつかぬはずがない。そしてその群をなして咲き誇っているところ、まるで火事でも起こったようだ。だからこの草にはキツネノタイマツ、火焔カエンソウ、野ダイマツなどの名がある。すなわちこの草の花ならその歌中にある「灼然いちじろく」の語もよく利くのである。また「人皆知りぬ」も適切な言葉であると受け取れる。ゆえに私は、この万葉歌の壱師すなわちイチシは多分疑いもなくこのヒガンバナすなわちマンジュシャゲの古名であったろうときめている。が、ただし現在何十もあるヒガンバナの諸国方言中にイチシに彷彿たる名が見つからぬのが残念である。どこからか出て来い、イチシの方言!

2021年9月12日

尾花沢 ~ 出羽三山/7 奥の細道

奥の細道図

尾花沢

 尾花沢おばねざわにて清風せいふうといふ者をたづぬ。かれはめるものなれども、こころざしいやしからず。都にも折々をりをりかよひて、さすがに旅のなさけをも知りたれば、日ごろとどめて、長途ちょうどのいたはり、さまざまにもてなしはべる。


  すずしさをわが宿にしてねまるなり


  でよ飼屋かひやしたひきの声


  まゆきをおもかげにして紅粉べにの花


  蚕飼こがひする人は古代の姿すがたかな  曽良


立石寺

 山形領やまがたりょう立石寺りゅうしゃくじといふ山寺あり。慈覚大師じかくだいしの開基にして、ことに清閑の地なり。一見すべきよし、人々のすゝむるによりて、尾花沢よりとつて返し、そのかん七里ばかりなり。日いまだ暮れず。ふもとの坊に宿借り置て、山上の堂に登る。岩にいはほかさねて山とし、松栢しょうはく年旧としふり、土石いてこけなめらかに、岩上がんじょうの院々とびらを閉ぢて物の音きこえず。岸をめぐり、岩をひて仏閣ぶっかくを拝し、佳景かけい寂寞じゃくまくとして心みゆくのみおぼゆ。

  しずかさや岩にしみ入るせみの声


最上川

 最上川もがみがわらんと、大石田おおいしだといふ所に日和ひよりを待つ。ここに古き誹諧の種落ちこぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角ろかく一声いっせいの心をやはらげ、この道にさぐりあしして、新古しんこふた道にまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻ひとまきを残しぬ。このたびの風流ここにいたれり。

 最上川は陸奥みちのくよりでて、山形を水上みなかみとす。碁点ごてんはやぶさなどいふ、おそろしき難所なんじょあり。板敷山いたじきやまの北を流れて、果ては酒田さかたの海にる。左右山おほひ、茂みの中に船をくだす。これに稲みたるをや、稲船いなぶねといふならし。白糸の滝は青葉の隙々ひまひまに落ちて、仙人堂、岸にのぞみて立つ。水みなぎつて舟あやふし。

  五月雨さみだれあつめてはや最上川もがみがわ


出羽三山

 六月三日、羽黒山はぐろさんに登る。図司左吉ずしさきちといふ者を尋ねて、別当代べっとうだい会覚阿闍利えがくあじゃりえつす。南谷みなみだにの別院にやどりして、憐愍れんみんの情こまやかにあるじせらる。
 四日、本坊にをゐて誹諧はいかい興行こうぎょう

  ありがたや雪をかほらす南谷みなみだに


 五日、権現ごんげんまうづ。当山開闢かいびゃく能除大師のうじょだいしはいづれのの人といふことをらず。延喜式えんぎしきに「羽州うしゅう里山の神社」とあり。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「鳥の毛羽をこの国のみつぎものたてまつる」と、風土記ふどきにはべるとやらん。月山がっさん湯殿ゆどのを合はせて三山とす。当寺、武江東叡ぶこうとうえいに属して、天台止観てんだいしかんの月明らかに、円頓融通えんどんゆずうのりともしびかかげそひて、僧坊むねを並べ、修験行法しゅげんぎょうほうを励まし、霊山霊地の験効げんかう、人たふとびかつ恐る。繁栄とこしなえにして、めでたき御山おやまつつべし。

 八日、月山にのぼる。木綿ゆふしめ身に引きかけ、宝冠にかしらを包み、強力ごうりきといふものに導かれて、雲霧山気うんむさんきの中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月にちぐわち行道ぎょうどう雲関うんかんに入るかとあやしまれ、息え身こごえて、頂上に至れば、日ぼっして月あらはる。笹を敷き、しのまくらとして、して明くるを待つ。日でて雲消ゆれば、湯殿に下る。

 谷のかたはら鍛治小屋かじごやといふあり。この国の鍛治だんや、霊水をえらびて、ここに潔斎してつるぎを打ち、つひに月山と銘を切って世に賞せらる。かの龍泉りようせんつるぎにらぐとかや、干将かんしやう莫耶ばくやむかししたふ。道に堪能かんのうしふあさからぬこと知られたり。岩に腰けてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばに開けるあり。降り積む雪の下にうづもれて、春を忘れぬおそざくらの花の心わりなし。炎天えんてんの梅花ここにかをるがごとし。行尊ぎょうそん僧正のうたここに思ひでて、なほあはれも、、、、まさりておぼゆ。総じてこの山中さんちゅう微細みさい、行者の法式として他言することを禁ず。よりて筆をとどめてしるさず。
 坊に帰れば、阿闍利あじゃりの求めによりて、三山巡礼の句々、短冊たんじゃくに書く。


  涼しさやほの三日月みかづき羽黒山はぐろさん


  雲の峰いくつくづれて月の山


  語られぬ湯殿にぬらすたもとかな


  湯殿山銭む道の涙かな  曽良


出羽三山 最上川 立石寺 尾花沢

2021年9月10日

夏と秋と行きかふ空のかよい路は

ススキ「芒」 白露/09.10 上州藤岡本郷

笹川沿いをぶらぶらしてます。陽射し燦々で眩しいくらい、それに暑いばい。湧き上がってる雲なんか夏の感じです。が、風に揺れるススキで、もう秋かなと… (^・^)

    古今集 巻三 夏歌 168 水無月の晦の日よめる by 躬恒
  夏と秋と行かふ空のかよひ路は かたへすゞしき風やふくらむ

小さい橋を渡り田んぼ周りを歩きだしたら畔からイナゴが飛び出してきました。て、イナゴなどとよんでみたけど本名は判りません。撮って憶える狸君です。昆虫たちはあまり撮ってなくて名は適当です。で、次にヤブツルアズキを撮りました。全国的には野小豆ノアズキてなソックリさんもいるようですがこちらでは見かけません。たら、また、イナゴが飛び出してきました。と、想ってたけどモニターしたら、さっきのお方とはちょいと違うようです。ならばと画像検索してみました。たらね、トノサマバッタが近いように視えました。そんな名で貼っときましたとさ (^-^)

たぶんイナゴ 白露/09.10 上州藤岡本郷 ヤブツルアズキ「藪蔓小豆」 白露/09.10 上州藤岡本郷 たぶんトノサマバッタ「藪蔓小豆」 白露/09.10 上州藤岡本郷

 

2021年9月9日

八月「葉月」三日の月

葉月三日の月 白露/09.09 18:20 上州藤岡鮎川 葉月三日の月 白露/09.09 18:20 上州藤岡鮎川 葉月三日の月 白露/09.09 18:20 上州藤岡鮎川

9月9日は陰暦だと八月「葉月」三日です。日没まじかになって食料調達にでました。たら、西南西の空に三日月が下りてました。さらに月の近くには宵の明星が輝いてましたとさ。 (^-^)

春はあけぼの… 夏は夜…
秋は夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近くなりたるに、からすの寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫のねなど、はたいふべきにあらず。
冬はつとめて…『枕草子』より

06/0993 大伴坂上郎女の初月みかづきの歌
月立ちてただ三日月みかづき眉根まよね
        長く恋ひし君に会へるかも
月立而 直三日月之 眉根掻 氣長戀之 君尓相有鴨

06/0994 大伴宿祢家持の初月みかづきの歌
ふりさけて若月みかづき見れば
     一目ひとめ見し人の眉引まよびき思ほゆるかも
振仰而 若月見者 一目見之 人乃眉引 所念可聞

 

2021年9月8日

瑞巌寺 ~ 尿前の関/6 奥の細道

奥の細道図

瑞巌寺

 十一日、瑞巌寺ずいがんじまうづ。当寺とうじ三十二世の昔、真壁まかべ平四郎へいしろう、出家して入唐にっとう、帰朝ののち開山かいざんす。そののち雲居うんご禅師の徳化とくげによりて、七堂いらか改まりて、金壁こんぺき荘厳しょうごん光をかかやかし、仏土ぶつど成就じょうじゅ大伽藍だいがらんとはなれりける。かの見仏聖けんぶつひじりの寺はいづくにやとしたはる。


石巻

 十二日、平泉ひらいづみと心ざし、姉歯あねはの松・緒絶をだえの橋など聞き伝へて、人跡じんせきまれに、雉兎蒭蕘すうぜうの行きかふ道そこともかず、つひに道みたがへて、石巻いしのまきといふみなとづ。「こがね花く」とよみてたてまつりたる金華山きんかさん海上かいしやうに見わたし、数百の廻船くわいせん入江につどひ、人家じんか地をあらそひて、かまどけぶり立ち続けたり。思ひがけずかかる所にもたれるかなと、宿らんとすれど、さらに宿す人なし。やうやうまどしき小家こいへ一夜いちやかして、あくればまたらぬ道まよひ行く。袖のわたり・ぶちの牧・真野まのかや原などよそ目に見て、はるかなるつつみを行く。心細き長沼にふて、戸伊摩といまといふ所に一宿いっしゅくして、平泉にいたる。その間廿余里にじゅうよりほどとおぼゆ。


平泉

 三代の栄耀えとう一睡のうちにして、大門だいもんの跡は一里こなたにあり。秀衡ひでひらが跡は田野でんやになりて、金鶏山きんけいざんのみ形を残す。まづ高館たかだちのぼれば、北上川きたかみがわ、南部より流るる大河なり。衣川ころもがはは、和泉いづみじょうめぐりて、高館のもとにて大河に落ち入る。泰衡やすひららが旧跡は、ころもせきを隔てて、南部口をさしかため、えぞふせぐと見えたり。さても、義臣すぐってこの城にこもり、功名こうみょう一時いちじくさむらとなる。「国破れて山河あり、しろ春にしてくさあおみたり」と、かさうち敷きて、時の移るまでなみだを落としはべりぬ。


  夏草やつわものどもが夢の跡


  の花に兼房かねふさ見ゆる白毛しらがかな   曽良


 かねて耳おどろかしたる二堂にどう開帳す。経堂きょうどうは三将の像を残し、光堂ひかりどうは三代のひつぎを納め、三尊さんぞんほとけを安置す。七宝せて、珠のとびら風に破れ、こがねの柱霜雪そうせつに朽ちて、すでに頽廃たいはい空虚のくさむらとなるべきを、四面あらたに囲みて、いらかを覆ひて雨風をしのぎ、しばらく千載せんざい記念かたみとはなれり。


  五月雨さみだれの降りのこしてや光堂


尿前の関

 南部道はるかに見やりて、岩手いわでの里に泊まる。小黒崎をぐろさき・みづの小島こじまを過ぎて、鳴子なるごの湯より尿前しとまえせきにかかりて、出羽ではの国に越えんとす。この道旅人たびびとまれなる所なれば、関守せきもりあやしめられて、やうやうとして関をす。大山たいざんを登って日すでに暮れければ、封人ほうじんの家を見かけてやどりを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留とうりゅうす。

  のみしらみ馬の尿ばりするまくらもと

 あるじのいはく、これより出羽でわくに大山おほやまを隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしをもうす。「さらば」といひて人を頼みはべれば、究境くっきゃうの若者、反脇指そりわきざしよこたへ、かしつえたずさへて、われわれが先に立ちて行く。今日こそ必ずあやふきめにもあふべき日なれと、からき思ひをなしてあとについて行く。あるじのふにたがはず、高山かうざん森々しんしんとして一鳥いっちょう声きかず、下闇したやみ茂りあひてる行くがごとし。雲端うんたんにつちふる心地ここちして、しのの中踏み分け踏み分け、水をわたり、岩につまづいて、はだつめたき汗を流して、最上もがみしやうづ。かの案内あないせし男子をのこふやう、「この道かならず不用ぶようのことあり。つつがなうをくりまゐいらせて、仕合しあはせしたり」と、よろこびてわかれぬ。あとに聞きてさへ、胸とどろくのみなり。


2021年9月7日

但馬皇女:万葉集、秋の田の/おくれ居て/人言を

実りの稲穂 処暑/09.06 上州藤岡矢場

穂積皇子:家にありし櫃に鍵さし蔵めてし恋の奴の つかみかかりて

巻二・一一四 但馬皇女たじまのひめみこ高市皇子たけちのみこの宮にいます時
穂積皇子ほづみのみこを思ほして作りませる歌一首

秋の田の穂向ほむききのれることよりに
君に寄りなな言痛こちたかりとも

秋田之 穂向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母

秋の田の稲穂が一つ方向になびいている。そのなびきのようにただひたむきに、あなたに寄りそいたい。たとい噂がやかましくても

 

巻二・一一五 穂積皇子にみことのりして近江の志賀の山寺に
遣はす時、但馬皇女の作りませる歌一首

おくれ居て恋ひつつあらずは 追いかむ
道の隈廻くまみしめへ わが

遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢

あとに残ってこんなに恋い焦がれていないで、あなたのあとを追って行こう。どうか道の曲り角ごとにしるしを結びつけておいて下さい。あなた

 

巻二・一一六 但馬皇女、高市皇子たけちのみこの宮にいます時
ひそかに穂積皇子にひて
事すでにあらはれて作りませる歌一首

人言ひとごとしげ言痛こちた

おのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡

人の噂がひどくやかましいので、生まれてまだ渡ったこともない朝の川を渡ることだ

実りの稲穂 処暑/09.06 上州藤岡矢場

↓ここから『万葉秀歌』斉藤茂吉です

 

人言ひとごとをしげみ言痛こちたみおのがにいまだわたらぬ朝川あさかはわたる

「巻二・一一六」 但馬皇女

 但馬皇女たじまのひめみこ(天武天皇皇女)が穂積皇子ほづみのみこ(天武天皇第五皇子)を慕われた歌があって、「秋の田の穂向ほむきのよれる片寄りに君に寄りなな言痛こちたかりとも」(巻二・一一四)の如き歌もある。この「人言を」の歌は、皇女が高市皇子の宮に居られ、ひそかに穂積皇子に接せられたのがあらわれた時の御歌である。
「秋の田の」の歌は上の句は序詞があって、技巧も巧だが、「君に寄りなな」の句は強く純粋で、また語気も女性らしいところが出ていてよいものである。「人言を」の歌は、一生涯これまで一度も経験したことの無い朝川を渡ったというのは、実際の写生で、実質的であるのが人の心を牽く。特に皇女が皇子に逢うために、ひそかに朝川を渡ったというように想像すると、なお切実の度が増すわけである。普通女が男の許に通うことは稀だからである。

        ○      ○

ゆきはあはになりそ吉隠よなばり猪養ゐがひをかせきなさまくに

「巻二・二〇三」 穂積皇子

 但馬たじま皇女が薨ぜられた(和銅元年六月)時から、幾月か過ぎて雪の降った冬の日に、穂積皇子が遙かに御墓(猪養の岡)を望まれ、悲傷流涕りゅうていして作られた歌である。皇女と皇子との御関係は既に云った如くである。吉隠よなばり磯城しき郡初瀬町のうちで、猪養の岡はその吉隠にあったのであろう。「あはにな降りそ」は、諸説あるが、多く降ることなかれというのに従っておく。「せきなさまくに」はせきをなさんに、せきとなるだろうからという意で、これも諸説がある。金沢本には、「塞」が「寒」になっているから、新訓では、「寒からまくに」と訓んだ。

 一首は、降る雪は余り多く降るな。但馬皇女のお墓のある吉隠の猪養の岡にかよう道をさえぎって邪魔になるから、というので、皇子は藤原京(高市郡鴨公村)からこの吉隠(初瀬町)の方を遠く望まれたものと想像することが出来る。

 皇女の薨ぜられた時には、皇子は知太政官事ちだいじょうかんじの職にあられた。御多忙の御身でありながら、或雪の降った日に、往事のことをも追懐せられつつ吉隠の方にむかってこの吟咏をせられたものであろう。この歌には、解釈に未定の点があるので、鑑賞にも邪魔する点があるが、大体右の如くに定めて鑑賞すればそれで満足し得るのではあるまいか。前出の、「君に寄りなな」とか、「朝川わたる」とかは、皆皇女の御詞であった。そして此歌に於てはじめて吾等は皇子の御詞に接するのだが、それは皇女の御墓についてであった。そして血の出るようなこの一首を作られたのであった。結句の「塞なさまくに」は強く迫る句である。

        ○      ○

今朝けさあさかりがねきつ春日山かすがやまもみぢにけらしがこころいた

「巻八・一五一三」 穂積皇子

 穂積皇子ほづみのみこの御歌二首中の一つで、一首の意は、今日の朝に雁の声を聞いた、もう春日山は黄葉もみじしたであろうか。身にみて心悲しい、というので、作者の心が雁の声を聞き黄葉を聯想しただけでも、心痛むという御境涯にあったものと見える。そしてなお推測すれば但馬皇女たじまのひめみことの御関係があったのだから、それを参考するとおのずから解釈出来る点があるのである。いずれにしても、第二句で「雁がね聞きつ」と切り、第四句で「もみぢにけらし」と切り、結句で「吾が心痛し」と切って、ぽつりぽつりとしている歌調はおのずから痛切な心境を暗指するものである。前の志貴皇子の「石激る垂水の上の」の御歌などと比較すると、その心境と声調の差別を明らかに知ることが出来るのである。もう一つの皇子の御歌は、「秋萩は咲きぬべからし吾が屋戸やどの浅茅が花の散りぬる見れば」(巻八・一五一四)というのである。なお、近くにある、但馬皇女の、「ことしげき里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを」(同・一五一五)という御歌がある。皇女のこの御歌も、穂積皇子のこの御歌と共に読味うことが出来る。共に恋愛情調のものだが、皇女のには甘くせまる御語気がある。

 

巻十六・三八一六 穂積皇子ほづみのみこ御歌みうた一首

家にありしひつかぎをさめてし恋のやつこ
つかみかかりて

家尓有之 櫃尓鏁刺 蔵而師 戀乃奴之 束見懸而

家にあった櫃に鍵をかけて、しまっておいた恋の奴が、私につかみかかって苦しめることだ

◎左注に、右の歌一首は、穂積親王、宴飲うたげの日にして、酒たけなはなる時に、好みてこの歌を誦して、以てつねめでと為したまひき

2021年9月6日

莫囂円隣の歌/額田王

14文字です「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」どう読むか…

まず、常用の『現代語訳 対照 万葉集』桜井満から…

莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣
吾瀬子之わがせこが 射立為兼いたたせりけむ 五可新何本いつかしがもと

 

莫囂円隣之大相七兄爪謁気
わが背子せこがい立たせりけむ厳橿いつかしがもと

 

温泉いでましし時、額田王ぬかたのおおきみの作る歌

雑歌「巻一・九」

 

 莫囂圓隣の歌は集中第一の難訓歌で、伊丹末雄『万葉集難訓考』によると、九十ほどの説があるという。最近も、松本清張が「宮人みやびとにかこまれとほし紀伊に行くわが背子立ちけむ厳橿が本」(文芸春秋第五十一巻第八号)と試みられたが、「紀伊」はキイではなく、キでなくてはならないので、五・七・四・八・七となり、落ちつかない。未だ従うべき説はないので、現代の主な試訓をあげて置く。なお三句以下を記さないものは「ワガセコガイタタセリケムイツカシガモト」と訓む。

畝傍うねびの浦西詰に立つ 宮嶋弘『万葉雑記』
静まりしかみな鳴りそね 土橋利彦『海青篇』
夕月の影踏みて立つ 伊丹末雄『万葉集難訓考』
静まりし浦浪さわく 沢瀉久孝『万葉集注釈』
まがりのたぶし見つつ行け吾が背子がい立たしけむいつかしが本 土屋文明『万葉集私注』
木綿ゆふ取りしはふり鎮むる吾が背子が射て立たすがね厳橿が本 谷繁『額田姫王』
まが環の装ひ七瀬の川にゆららに、わが背子しい立たせりけむ厳橿が本 阪口保『万葉林散策』

 

 

『万葉秀歌』斉藤茂吉

くにやまえて
背子せこがいたせりけむ厳橿いつかしがもと

「巻一・九」額田王

 紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之ワガセコガ射立為兼イタタセリケム五可新何本イツカシガモト」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だとっていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿いつかしもと」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿いつかしおごそかな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下にかつて私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以倭姫命御杖奉於天照大神是以倭姫命以天照大神ヲ坐磯城ノ厳橿之本とあり、古事記雄略巻に、美母呂能ミモロノ伊都加斯賀母登イツカシガモト加斯賀母登カシガモト由由斯伎加母ユユシキカモ加志波良袁登売カシハラヲトメ、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、橿原かしはら畝火うねびの山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。考頭注に、「このかしは神の坐所の斎木ゆきなれば」云々。古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。

 さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、古兄氐湯気コエテユケだとした。考に云、「こはまづ神武天皇紀によるに、今の大和国を内つ国といひつ。さて其内つ国を、こゝにサヤギなき国と書たり。同紀に、雖辺土未清余妖尚梗而トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ中洲之地無風塵ウチツクニハヤスラケシてふと同意なるにてしりぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国をさす也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃キノクニノよむべし。又右の紀に、辺土と中州をむかへいひしに依ては、此五字をつ国のとも訓べし。然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは此哥このうたにかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、なほ上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは荷田大人かだのうしのひめうた也。さて此哥の初句と、斉明天皇紀の童謡ワザウタとをば、はやき世よりよくヨム人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田信名宿禰に伝へられき。其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家にとふに、全く古大人の訓にひとしといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功もいたづらなりなんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「傍国かたくに可怜国うましくになり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。

 古義では、「三室みもろ大相土見乍湯家ヤマミツツユケ吾が背子がい立たしけむ厳橿がもと」と訓み、奠器円レ隣メグラスでミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登ミモロノイツカシガモトを参考とした。そして真淵説を、「紀ノ国の山を超て何処イヅクに行とすべけむや、無用説イタヅラゴトといふべし」と評したが、しかしこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田久老ひさおい信濃漫録しなのまんろくで云ったその模倣である。真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。この訓は何処かたるんでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。「吾が背子」は、或は大海人皇子おおあまのみこ(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。

2021年9月1日

トキイロクズ「朱鷺色葛」

トキイロクズ「朱鷺色葛」 処暑/09.01 上州高崎吉井 トキイロクズ「朱鷺色葛」 処暑/09.01 上州高崎吉井 トキイロクズ「朱鷺色葛」 処暑/09.01 上州高崎吉井

秋の七草の葛花クズバナですが、ここのは淡い桃色をしています。てか、朱鷺トキのような色をしている花です。なんで以前からトキイロクズとよんでいます。シロバナクズとよばれている花と同じかも知れんけどシロバナには見えませんじゃ (゚o゚;

あっ、パチリはついさっきです。小雨が降っていて20℃くらいしかなく、涼しいを通り越して寒いばい。が、辺りに甘い香りがただよっていました。普通の葛花と同じで葛根湯の原料になるかもよ。ちゅうても狸ん家だと、ここでしか観られないトキイロクズです。そっとしておいてください。9月1日、嬉しいことがありました。あんがとヤマモトさん。記念の即アゲ _(._.)_

2021年8月28日

をふさかかれる葛城の峰/西行

虹 小暑/07.15 武州上里

西行 さらにまたそり橋渡すここちして をふさかかれる葛城の峰

東歌 伊香保ろのやさかのゐでに立つ虹の 顕はろまでもさ寝をさ寝てば

西行 残集 31

月あかかりけるに池にかわづのなきけるをききて

さ夜ふけて月にかはづの声聞けば

みぎはもすゞし池のうき草

夜が深まり明るい月の光にカエルが鳴くのを聞いていると、水際も池の浮草も涼しそうで、立派な邸宅と実感されました。家誉め歌か…

 

西行 残集 32

高野に参りけるに葛城の山に虹のたちたるをみて

さらに又そり橋渡す心地して

をぶさかかれる葛城の峰

一言主の神が、役行者に命じられて途中までかけたという岩橋の上に、もうひとつ反り橋を渡したような大きく美しい虹が葛城山にかかっている

 

万葉集 巻十四 3414

伊香保いかほろの八尺やさか堰塞ゐでのじ

あろはろまでもさをさてば

相聞 東歌・上野國歌

 

伊香保呂能いかほろの 夜左可能為提尓やさかのゐでに 多都努自能たつのじの

安良波路萬代母あらはろまでも 佐祢乎佐祢弖婆さねをさねてば

伊香保の大きな堰にあざやかに顕れる虹のように、人目につくくらいまで、ずっとお前と寝ていられたらな…
恋人の家を訪れ、一夜を過ごした男は、明るくなる前に、帰らなければなりません。いち度は人目なんか気にしないで、心ゆくまで過ごしたいと…

2021年8月27日

山の田の稲穂いろづき秋を識り

稲穂に入道雲 処暑/08.26 上州藤岡矢場

魂合はば相寝るものを小山田の鹿猪田守るごと母し守らすも [母が守らしし]
母系社会の母と娘のバトル短歌です ( ̄ ̄□ ̄ ̄;) 語り&解説 上野誠教授

巻十二 3000

霊合者たまあはば 相宿物乎あひぬるものを 小山田之 をやまだの

鹿猪田禁如ししだもるごと 母之守為裳ははしもらすも

「一云 母之守之師ははがもらしし

たまはば

相寝あいぬるものを

小山田の

鹿猪田ししだるごと

母しらすも

「一に云はく、母が守らしし」

二人の魂が合えば一緒に寝ようものを…

山田を荒らす鹿や猪を見張るように

母が私を監視していらっしゃることよ

2021年8月25日

文月十八日の月/処暑 23:59

文月十八日の月 処暑/08.25 23:59 上州藤岡

買い食いにコンビニへ。たら、文月十八日の月が空高く昇ってました。まだ生きてます (^-^)

春日山霞たなびき心ぐく照れる月夜にひとりかも寝む 坂上大嬢

朗読&解説 佐々木教授

月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をぞせし行かまくを欲り 大伴家持


巻四・七三五
坂上大嬢さかのうへのおほいらつめ、家持に贈る歌一首

春日山かすみたなびき こころぐく照れる月夜つくよに ひとりかも寝む

春日山 霞多奈引 情具久 照月夜尓 獨鴨念

春日山に霞がたなびいて、ぼんやりと照っている月夜に、独り淋しく寝ることであろうか


巻四・七三六
家持、坂上大嬢さかのうへのおほいらつめあはする歌一首

月夜つくよにはかどに出で立ち 夕占ゆうけ問ひ足卜あうらをぞせしかまくを

月夜尓波 門尓出立 夕占問 足卜乎曽為之 行乎欲焉

月のある晩には門口に出て、夕占をしたり足卜をしたことである。あなたのところに行きたいと思って

寝っ子草は捩花じゃ

3537 くへ越しに麦食む小馬のはつはつに 相見し子らしあやに愛しも

朗読&解説 佐々木教授

"或本歌曰"で相見感たっぷりの異訓がついてます。載せときました (^-^)

芝付乃しばつきの 御宇良佐伎奈流みうらさきなる 根都古具佐ねつこぐさ 安比見受安良婆あひみずあらば 安礼古非米夜母あれこひめやも


芝付しばつき三浦崎みうらざきなるねつこ草

相見ずあらばあれ恋ひめやも

相聞 東歌 万葉集

巻十四 3508 ネジバナ「捩花」 小暑/07.12 上州藤岡緑埜

久敝胡之尓くへごしに 武藝波武古宇馬能むぎはむこうまの 波都々々尓はつはつに 安比見之兒良之あひみしこらし 安夜尓可奈思母あやにかなしも


くへ越しに麦む小馬のはつはつに

相見し子らしあやにかなしも

相聞 東歌 万葉集

巻十四 3537

馬柵越うませごし麦こまのはつはつに

新肌にいはだ触れし子ろしかなしも

2021年8月23日

わが里に/わが岡に/贈答歌

わが里に大雪降れり 大原の古りにし里に降らまくは後 by 天武天皇

朗読&解説 佐々木教授

わが岡の靈神に言ひて降らしめし雪の摧けし其処に散りけむ by 大原夫人

明日香清御原宮御宇天皇代[天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇]

天皇賜藤原夫人御歌

吾里尓わがさとに 大雪落有おほゆきふれり 大原乃おほはらの 古尓之郷尓ふりにしさとに 落巻者後ふらまくはのち

 

藤原夫人奉和歌

吾岡之わがをかの 於可美尓言而おかみにいひて 令落ふらしめし 雪之摧之ゆきのくだけし 彼所尓塵家武そこにちりけむ

 

 

天皇、藤原夫人ふじわらのぶにんに賜う歌

我が里に
大雪降れり
大原の
りにし里に
降らまくはのち

天武天皇

巻二102

 

藤原夫人の和せ奉る歌

我が岡の
おかみに言ひて
降らしめし
雪のくだけし
そこに散りけむ

藤原夫人

巻二103

 

 

わが里に/わが岡の/贈答歌『万葉秀歌』斉藤茂吉

わが里に 大雪降れり

大原の りにし里に 降らまくはのち

 天武天皇が藤原夫人に賜わった御製である。藤原夫人は鎌足の五百重娘いおえのいらつめで、新田部皇子にいたべのみこの御母、大原大刀自おおはらのおおとじともいわれた方である。夫人ぶにんは後宮に仕える職の名で、妃に次ぐものである。大原は今の高市たかいち飛鳥あすか小原おはらの地である。

 一首は、こちらの里には今日大雪が降った、まことに綺麗だが、おまえの居る大原の古びた里に降るのはまだまだ後だろう、というのである。

 天皇が飛鳥の清御原きよみはらの宮殿に居られて、そこから少し離れた大原の夫人のところに贈られたのだが、謂わば即興の戯れであるけれども、親しみの御語気さながらに出ていて、沈潜して作る独詠歌には見られない特徴が、また此等の贈答歌にあるのである。然かもこういう直接の語気を聞き得るようなものは、後世の贈答歌には無くなっている。つまり人間的、会話的でなくなって、技巧を弄した詩になってしまっているのである。

○    ○

わが岡の 靈神おかみに言ひて 降らしめし

雪のくだけ其処そこに散りけむ

 藤原夫人が、前の御製にこたえ奉ったものである。靈神おかみというのは支那ならば竜神のことで、水や雨雪を支配する神である。一首の意は、陛下はそうおっしゃいますが、そちらの大雪とおっしゃるのは、実はわたくしが岡の靈神に御祈して降らせました雪の、ほんのくだけが飛ばっちりになったに過ぎないのでございましょう、というのである。御製の揶揄やゆに対して劣らぬユウモアを漂わせているのであるが、やはり親愛の心こまやかで棄てがたい歌である。それから、御製の方が大どかで男性的なのに比し、夫人の方は心がこまかく女性的で、技巧もこまかいのが特色である。歌としては御製の方が優るが、天皇としては、こういう女性的な和え歌の方が却って御喜になられたわけである。

2021年8月21日

蒲生野贈答歌/額田王/大海人

あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る 額田王

むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 皇太子

『万葉集 巻第一』天皇遊猟蒲生野時額田王作歌

20あかねさす 紫野むらさきの標野しめの

野守のもりずや きみそで

茜草指あかねさす 武良前野逝むらさきのゆき 標野行しめのゆき 野守者不見哉のもりはみずや 君之袖布流きみがそでふる

 天智天皇が近江の蒲生野がもうのに遊猟「薬猟」したもうた時(天皇七年五月五日)、皇太子(大皇弟、大海人皇子おおあまのみこ)諸王・内臣・群臣が皆従った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。額田王ははじめ大海人皇子にみあ十市皇女とおちのひめみこを生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍していた。この歌は、そういう関係にある時のものである。「あかねさす」は紫の枕詞。「紫野」は染色の原料として紫草むらさきを栽培している野。「標野」は御料地としてみだりに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。「野守」はその御料地の守部もりべ即ち番人である。

 一首の意は、お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。それが不安心でございます、というのである。

 この「野守」に就き、或は天智天皇を申し奉るといい、或は諸臣のことだといい、皇太子の御思い人だといい、種々の取沙汰があるが、其等のことは奥に潜めて、野守は野守として大体を味う方が好い。また、「野守は見ずや君が袖ふる」をば、「立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか」とうながすように解する説もある。「袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよなよとをかしげなるをいふ」(攷證)。「わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。われは見るからにゑましきにとなり」(講義)等である。併し、袖振るとは、「わが振る袖を妹見つらむか」(人麿)というのでも分かるように、ただの客観的な姿ではなく、恋愛心表出のための一つの行為と解すべきである。

 この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、甘美な媚態びたいをも感じ得るのである。「野守は見ずや」と強く云ったのは、一般的に云って居るようで、むしろ皇太子にうったえているのだと解して好い。そういう強い句であるから、その句を先きに云って、「君が袖振る」の方を後に置いた。併しその倒句は単にそれのみではなく、結句としての声調に、「袖振る」と止めた方が適切であり、また女性の語気としてもその方に直接性があるとおもうほど微妙にあらわれて居るからである。甘美な媚態云々というのには、「紫野ゆき標野ゆき」と対手あいての行動をこまかく云い現して、語を繰返しているところにもあらわれている。一首は平板に直線的でなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つようになった。先進の注釈書中、この歌に、大海人皇子に他に恋人があるのでねたましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戯れにさとすような分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美なうったえに触れたためであろう。

 「袖振る」という行為の例は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(巻二・一三二)、「おほならばかもかもむをかしこみと振りたき袖をしぬびてあるかも」(巻六・九六五)、「高山のみね行く鹿ししの友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」(巻十一・二四九三)などである。

 

 

『万葉集 巻第一』(天皇遊猟蒲生野時額田王作歌)
皇太子答御歌

21紫草むらさきの にほへるいもにくくあらば

人嬬ひとづまゆゑに あれひめやも

紫草能むらさきの 尓保敝類妹乎にほへるいもを 尓苦久有者にくくあらば 人嬬故尓ひとづまゆゑに 吾戀目八方われこひめやも

 右(二〇)の額田王の歌に対して皇太子(大海人皇子、天武天皇)の答えられた御歌である。  一首の意は、紫の色の美しくにおうように美しいいも(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋するはずはないではないか。そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。

 この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからとって」というのでなく、「人妻にって恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひせぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉にはなはだ多い。恋人を花にたとえたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。

 この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「にくくあらなくに」、「にくからなくに」の例もある。この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌にはたとい切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。

2021年8月17日

オキナグサ/2007 上州藤岡

オキナグサ「翁草」 2007.03.31 上州藤岡 オキナグサ「翁草」 2007.04.05 上州藤岡 オキナグサ「翁草」 2007.04.05 上州藤岡

オキナグサ『植物知識』牧野富太郎

 春に山地に行くと、往々おうおうオキナグサという、ちょっと注意をく草に出逢であう。全体に白毛はくもうかぶっていて白く見え、他の草とはその外観が異っているので、おもしろくつ珍しく感ずる。葉は分裂ぶんれつしており、かぶから花茎かけいが立ち十数センチメートルの高さで花をけている。花は点頭てんとうして横向きになっており、日光が当たるとく開く。花の外面に多くの白毛が生じており、六ぺん花片かへん(実は萼片がくへんであって花弁はなく、萼片が花弁状をなしている)の内面は色が暗紫赤色あんしせきしょくていしている。花内かない多雄蕊たゆうずい多雌蕊たしずいとがある。わがくにの学者はこの草を漢名の白頭翁はくとうおうだとしていたが、それはもとより誤りであった。この白頭翁はくとうおうはオキナグサに酷似こくじした別の草で、それは中国、朝鮮に産し、まったくわが日本には見ない。ゆえに右日本のオキナグサを白頭翁はくとうおうてるのは悪い。

 さてこの草をなぜオキナグサ、すなわち翁草というかというと、それはその花がんで実になると、それが茎頂けいちょうに集合し白く蓬々ほうほうとしていて、あたかもおきな白頭はくとうに似ているから、それでオキナグサとそう呼ぶのである。この蓬々ほうほうとなっているのは、その実のいただきにある長い花柱かちゅう白毛はくもうが生じているからである。

 この草には右のオキナグサのほかになおたくさんな各地の方言があって、シャグマグサ、オチゴバナ、ネコグサ、ダンジョウドノ、ハグマ、キツネコンコン、ジイガヒゲ、ゼガイソウもその内の名である。右のゼガイソウは、すなわち善界草ぜんがいそうで、これは謡曲ようきょくにある赤態しゃぐまけた善界坊ぜんがいぼうから来た名である。

 『万葉集』にこの草をみ込んである歌が一つある。すなわちそれは、

 

芝付しばつき美宇良崎みうらざきなるねつこぐさ

相見ずあらばあれひめやも

 

 である。そしてこのネツコグサは、ネコグサの意で、オキナグサをしている。花に白毛が多いので、それで猫草といったものだ。

 このオキナグサは山野さんや向陽地こうようちに生じ、春早く開花するので、子女しじょなどに親しまれ、その花をって遊ぶのである。葉は花後かごに大きくなる。根は多年生で肥厚ひこうしており、毎年その株の頭部から花、葉が萌出ほうしゅつするのである。

 この草はキツネノボタン科に属し、その学名を Anemone cernua Thunb. とも、また Pulsatilla cernua Spreng. ともいわれる。そしてその種名の cernua は点頭てんとう、すなわち傾垂けいすいの意で、それはその花の姿勢しせいもとづいて名づけたものだ。

オキナグサ「翁草」 2007.03.31 上州藤岡

2021年8月4日

イワタバコ/08.02 谷不動尊

イワタバコ 大暑/08.02 上州吉井谷不動尊 イワタバコ 大暑/08.02 上州吉井谷不動尊 イワタバコ 大暑/08.02 上州吉井谷不動尊

イワタバコ 大暑/08.02 上州吉井谷不動尊 イワタバコが咲いていました。いつもは岩盤に着生しているのをパチってきます。今回は倒木があったり注連縄が落ちてたりと… しょうがなく本殿の石段に咲いていたイワタバコを撮ってきました。まだまだ咲き続けるはずです。そのうちにリベンジするつもりだけど…(◯^o^◯)