2021年3月19日

飯塚の里 〜 宮城野/4 奥の細道

奥の細道図

飯塚の里

 月の輪のわたしを越えて、うへといふ宿しゅくづ。佐藤さとう庄司しょうじが旧跡は、左の山際やまぎは一里半ばかりにあり。飯塚いひづかの里鯖野さばのと聞きて尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ、庄司しょうじが旧館なり。ふもと大手おほての跡など、人のおしふるにまかせて涙を落とし、またかたはらの古寺に一家いっけの石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、たもとをぬらしぬ。堕涙だるいの石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶をへば、ここに義経よしつね太刀たち弁慶べんけいおひをとどめて什物じふもつとす。

  おひ太刀たち五月さつきかざ帋幟かみのぼり

五月さつき朔日ついたちのことにや。

 その、飯塚にまる。温泉いでゆあれば湯に入りて宿をるに、土坐どざむしろを敷きて、あやしき貧家ひんかなり。ともしびもなければ、囲炉裏ゐろりかげに寝所ねどころまうけてす。に入りて雷鳴かみなり、雨しきりに降りて、せる上よりり、のみにせせられてねぶらず、持病さへおこりて、消え入るばかりになん。短夜みじかよの空もやうやう明くれば、また旅立ちぬ。なほよるのなごり、心すゝまず。馬りて桑折こをりの駅にづる。はるかなる行末ゆくすえをかかへて、かかるやまひおぼつかなしといへど、羇旅きりょ辺土の行脚あんぎゃ捨身しゃしん無常の観念、道路どうろに死なん、これ天のめいなりと、気力いささかとりなほし、道縦横じゅうおうんで伊達だての大木戸を越す。


笠島

 鐙摺あぶみずり白石しろいしじょうを過ぎ、笠島かさしまこほりれば、とうの中将実方さねかたつかはいづくのほどならんと人に問へば「これよりはるか右に見ゆる山際やまぎはの里を、蓑輪みのわ笠島かさしまといひ、道祖神だうそじんやしろ形見かたみすすき今にあり」と教ふ。このごろの五月雨さみだれに道いとあしく、身疲れはべれば、よそながらながめやりてぐるに、蓑輪・笠島も五月雨さみだれのをりにれたりと、

  笠島はいづこ五月さつきのぬかり道


武隈の松

   岩沼宿いはぬまにしゅくす

 武隈たけくまの松にこそ目さむる心地ここちはすれ。根は土際つちぎはより二木ふたきに分かれて、昔の姿うしなはずと知らる。まづ能因のういん法師思ひづ。往昔そのかみ陸奥守むつのかみにて下りし人、この木をりて、名取川なとりがわ橋杭はしぐひにせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とはみたり。代々よよ、あるはり、あるひは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた、千歳ちとせかたちととのひて、めでたき松の気色けしきになんはべりし。

  武隈たけくまの松見せ申せ遅桜おそざくら

と、挙白きょはくといふ者の餞別したりければ、

  桜より松は二木ふたき三月みつき越し


宮城野

 名取川を渡つて仙台にる。あやめふく日なり。旅宿をもとめて四五日逗留とうりうす。ここに画工加右衛門かえもんといふものあり。いささか心ある者と聞きて知る人になる。この者、「年ごろ定かならぬ名どころを考へ置きはべれば」とて、一日ひとひ案内す。宮城野みやぎのはぎ茂りあひて、秋の気色思ひやらるる。玉田・横野よこの躑躅つゝじおかはあせび咲くころなり。日影も漏らぬ松の林に入りて、ここをしたといふとぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社みやしろなど拝みて、その日は暮れぬ。なお、松島・塩竃しほがま所々ところどころに書きて贈る。かつ、紺の染緒そめをつけたる草鞋わらじ二足はなむけす。さればこそ、風流のしれ者、ここに至りてそのまことあらはす。

  あやめ草足に結ばん草鞋わらじ

 かの画図ゑづにまかせてたどり行けば、おくの細道の山際やまぎはに、十符とふすげあり。今も年々としどし十符の菅菰すがごも調ととのへて国守こくしゅに献ずといへり。


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