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2022年9月21日

祓/12 奥の細道

蕪村「奥の細道図上巻」那須野

    跋ばつ

 からびたるも、艶えんなるも、たくましきも、はかなげなるも、おくのほそ道見みもてゆくに、おぼえず起たちて手たたき、伏して村肝むらきもを刻む。一般ひとたびは蓑みのを着きる着るかゝる旅せまほしと思ひ立ち、一度たびは坐してまのあたり奇景を甘あまんず。かくて百般ももたびの情に鮫人かうじんが玉を翰ふでにしめしたり。旅なるかな、器うつはものなるかな。ただ嘆なげかしきは、かうやうの人のいとかよわげにて、眉まゆの霜のおきそふぞ。

  元禄七年初夏       素竜書



「からびたる」は、枯淡なおもむき。村肝は「深く心に感動をおぼえるさま」と補注にあり、「伏して村肝むらきもを刻む」を、「頭こうべを垂れて心肝しんかんを切り刻むごとき深い感銘に誘われる」と評釈にありました。でね「村肝むらきも」は万葉集だと心こころにかかる枕詞です。

巻四 大伴宿禰家持贈娘子歌

720 村肝の心砕けてかくばかり
  わが恋ふらくを 知らずかあるらむ

村肝之むらきもの 情揣而こころくだけて 如此許かくばかり 余戀良苦乎あがこふらくを 不知香安類良武しらずかあるらむ


 また一冊、ぼろぼろにしちゃいました。書き始める前に撮っとかないとね。が、幸い、ウェブ検索したらいくつかヒットしました。息の長い古典ならではかと… モチパクで表紙だけあげました。でね、カバーは義仲寺蔵の「那須野の図」芭蕉翁絵詞伝からのようです。義仲寺には芭蕉の墓もあるとか。で、奥の細道図から那須野の辺りを貼っといて…

 小ちひさき者ふたり、馬の跡慕したひて走る。ひとりは小姫こひめにて、名を「かさね」といふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、


  かさねとは八重撫子やえなでしこの名なるべし 曾良


おくのほそ道 頴原退蔵・尾形仂 角川ソフィア文庫

2022年9月20日

福井 ~ 大垣/11 奥の細道

奥の細道図

福井

 福井は三里ばかりなれば、夕飯ゆうめししたためて出づるに、黄昏たそがれの道たどたどし。ここに等栽とうさいといふ古き隠士あり。いづれの年にや江戸に来たりて予を尋ぬ。遥はるか十年ととせ余りなり。いかに老おいさらばひてあるにや、はた死しにけるにやと、人に尋ねはべれば、いまだ存命してそこそこと教おしふ。市中ひそかに引き入りて、あやしの小家こいへに夕顔ゆうがお・へちまの延はへかかりて、鶏頭けいとう・箒木はゝきゞに戸ぼそを隠す。さてはこの内にこそと、門かどをたたけば、侘わびしげなる女の出いでて、「いづくよりわたりたまふ道心どうしんの御坊ごぼうにや。あるじはこのあたり何某なにがしといふ者もののかたに行きぬ。もし用あらば尋ねたまへ」といふ。かれが妻なるべしと知しらる。昔物語ものがたりにこそかかる風情ふぜいははべれと、やがて尋ね会ひて、その家に二夜ふたよ泊まりて、名月は敦賀つるがの港みなとにと旅立つ。等栽もともに送らんと、裾すそをかしうからげて、道の枝折しおりと浮うかれ立たつ。


敦賀

 やうやう白根しらねが岳だけ隠かくれて、比那ひなが嵩だけ現あらはる。あさむづの橋を渡わたりて、玉江たまえの蘆あしは穂ほに出いでにけり。鴬うぐいすの関せきを過すぎて、湯尾ゆのを峠を越こゆれば、燧ひうちが城じやう、帰山かへるやまに初鴈はつかりを聞きて、十四日の夕暮ぐれ、敦賀つるがの津に宿を求もとむ。

 その夜、月殊ことに晴れたり。「明日あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路こしぢの習ひ、なほ明夜めいやの陰晴はかりがたし」と、あるじに酒勧すすめられて、気比けいの明神みやうじんに夜参す。仲哀ちゆうあい天皇の御廟ごべうなり。社頭神かんさびて、松の木この間まに月の漏もり入りたる。御前おまへの白砂はくさ、霜を敷けるがごとし。往昔そのかみ、遊行ゆぎやう二世の上人しやうにん、大願発起たいぐわんほつきのことありて、自みづから草を刈かり、土石を荷になひ、泥渟でいていをかわかせて、参詣往来おうらいの煩わずらひなし。古例今に絶たえず。神前に真砂まさごを荷になひたまふ。「これを遊行の砂持ちと申しはべる」と、亭主の語かたりける。

  月清し遊行の持もてる砂の上

 十五日、亭主のことばにたがはず雨あめ降る。

  名月や北国ほくこく日和びより定めなき


種の浜

 十六日、空霽はれたれば、ますほの小貝拾ひろはんと、種いろの浜はまに舟を走す。海上かいしやう七里あり。天屋てんや何某なにがしといふ者、破籠わりご・小竹筒ささえなどこまやかにしたためさせ、僕しもべあまた舟にとり乗のせて、追ひ風、時の間まに吹ふき着つきぬ。浜はわづかなる海士あまの小家こいへにて、侘わびしき法華寺ほつけでらあり。ここに茶を飲み、酒を暖あたゝめて、夕暮れの寂さびしさ、感に堪たへたり。


  寂さびしさや須磨すまに勝かちたる浜の秋


  波の間まや小貝にまじる萩はぎの塵ちり


その日のあらまし、等栽とうさいに筆をとらせて寺に残す。


大垣

 露通ろつうもこの港みなとまで出いで迎むかひて、美濃みのの国へと伴ともなふ。駒こまに助たすけられて大垣おおがきの庄に入れば、曽良も伊勢いせより来たり合ひ、越人えつじんも馬を飛とばせて、如行じよこうが家に入り集まる。前川子ぜんせんし・荊口けいこう父子、その外親したしき人々、日夜訪とぶらひて、蘇生そせいの者に会ふがごとく、かつ喜よろこび、かついたはる。旅のものうさもいまだやまざるに、長月ながつき六日むいかになれば、伊勢いせの遷宮せんぐう拝おがまんと、また舟に乗のりて、


  蛤はまぐりの
ふたみに
別れ行く秋ぞ


2022年9月18日

別離 ~ 永平寺/10 奥の細道

奥の細道図

別離

 曽良は腹を病みて、伊勢いせの国長島ながしまといふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、

  行き行きて倒たふれ伏ふすとも萩はぎの原  曽良

と書き置きたり。行ゆくものの悲かなしみ、残のこるものの憾うらみ、隻鳧せきふの別れて雲にまよふがごとし。予もまた、

  今日よりや書付かきつけ消さん笠かさの露


全昌寺

 大聖寺だいしやうじの城外、全昌寺ぜんしやうじといふ寺に泊とまる。なほ加賀かがの地なり。曽良も前の夜この寺に泊とまりて、

  よもすがら秋風聞くや裏うらの山

と残す。一夜いちやの隔て、千里に同じ。われも秋風を聞きて衆寮しゅりょうに臥ふせば、あけぼのの空近ちこう、読経どきょう声澄すむままに、鐘板しょうばん鳴りて食堂じきどうに入る。今日けふは越前えちぜんの国へと、心早卒そうそつにして堂下に下るを、若き僧ども紙かみ硯すゞりをかかへて、階きざはしの下もとまで追ひ来たる。をりふし庭中ていちゅうの柳散ちれば、

  庭掃きて出いでばや寺に散ちる柳

とりあへぬさまして、草鞋わらぢながら書き捨つ。


汐越の松

越前の境さかい、吉崎よしさきの入江を舟に棹さおさして汐越しおごしの松を尋ぬ。


  よもすがら嵐あらしに波を運はこばせて
    月を垂たれたる汐越の松  西行


この一首にて数景すけい尽きたり。もし一辧を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。


天龍寺・永平寺

 丸岡まるおか天龍寺てんりゅうじの長老、古き因ちなみあれば尋ぬ。また、金沢の北枝ほくしといふもの、かりそめに見送りて、この所まで慕したひ来る。ところどころの風景過すぐさず思ひ続つゞけて、をりふしあはれなる作意など聞こゆ。今すでに別わかれに臨のぞみて、

  物書きて扇引きさくなごりかな

 五十町山に入りて永平寺えいへいじを礼らいす。道元禅師どうげんぜんじの御寺みてらなり。邦機ほうき千里を避けて、かかる山陰やまかげに跡を残したまふも、貴たふときゆゑありとかや。


永平寺・天龍寺 汐越の松 金昌寺 別離

2022年9月15日

市振 ~ 山中/9 奥の細道

奥の細道図

市振

 今日けふは親知らず・子知らず・犬戻もどり・駒返がえしなどいふ北国一ほっこくいちの難所なんじょを越こえてつかれはべれば、枕まくら引きよせて寐ねたるに、一間ひとま隔へだてて面おもてのかたに若き女の声ふたりばかりと聞こゆ。年老としおいたる男おのこの声も交まじりて物語ものがたりするを聞けば、越後えちごの国新潟にいがたといふ所ところの遊女ゆうじょなりし。伊勢いせ参宮さんぐうするとて、この関せきまで男おのこの送おくりて、あすは古郷ふるさとに返す文ふみしたため、はかなき言伝ことづてなどしやるなり。「白浪しらなみのよする汀みぎわに身みをはふらかし、海士あまのこの世をあさましう下くだりて、定さだめなき契ちぎり、日々ひびの業因ごういんいかにつたなし」と、ものいふを聞く聞く寝入ねいりて、あした旅立たびだつに、我々われわれに向むかひて、「行方ゆくえ知しらぬ旅路たびぢの憂うさ、あまり覚束おぼつかなう悲しくはべれば、見え隠がくれにも御跡おんあとを慕したひはべらん。衣ころもの上の御情おんなさけに、大慈だいじの恵めぐみを垂たれて、結縁けちえんせさせたまへ」と涙なみだを落とす。不便ふびんのことには思ひはべれども、「われわれは所々ところどころにてとどまるかた多おほし。ただ人の行ゆくにまかせて行ゆくべし。神明しんめいの加護かご、必かならず恙つつがなかるべし」といひ捨すてて出いでつつ、あはれさしばらくやまざりけらし。


  一家ひとつやに遊女ゆうじょも寝たり萩はぎと月


曽良に語かたれば、書かきとどめはべる。


越中路

 黒部くろべ四十八ヶ瀬しじゅうはちがせとかや。数知しらぬ川を渡わたりて、那古なごといふ浦うらに出いづ。担籠たごの藤浪ふじなみは、春ならずとも、初秋はつあきのあはれ訪とふべきものをと、人に尋ぬれば「これより五里磯いそ伝ひして、向むかふの山陰に入いり、蜑あまの苫葺とまぶきかすかなれば、蘆あしの一夜ひとよの宿貸かすものあるまじ」と、いひをどされて、加賀かがの国に入いる。

  早稲わせの香かや分わけ入いる右は有磯海ありそうみ


金沢

 卯うの花山・倶利伽羅くりからが谷を越こえて、金沢かなざわは七月中なかの五日なり。ここに大坂おおざかより通ふ商人あきんど何処かしょといふ者あり。それが旅宿をともにす。
 一笑いつせうといふ者は、この道に好すける名のほのぼの聞えて、世に知る人もはべりしに、去年こぞの冬早世そうせいしたりとて、その兄追善ついぜんを催もよおすに、


  塚つかも動けわが泣く声は秋の風


   ある草庵そうあんにいざなはれて


  秋涼し手ごとにむけや瓜うり茄子なすび


   途中吟


  あかあかと日はつれなくも秋の風


   小松こまつといふ所にて


  しをらしき名や小松吹く萩はぎ薄すゝき


多太神社

 この所多太太田の神社に詣もうづ。実盛さねもりが甲かぶと・錦にしきの切れあり。往昔そのむかし源氏に属せし時、義朝よしとも公より賜たまはらせたまふとかや。げにも平士ひらさぶらいのものにあらず。目庇まびさしより吹返ふきがへしまで、菊唐草きくからくさの彫ほりもの金こがねをちりばめ、龍頭たつがしらに鍬形くわがた打つたり。実盛討死うちじにの後のち、木曽義仲きそよしなか願状がんじょうに添へて、この社やしろにこめられはべるよし、樋口ひぐちの次郎じろうが使ひせしことども、まのあたり縁記えんぎに見えたり。

 むざんやな甲かぶとの下のきりぎりす


那谷

 山中やまなかの温泉いでゆに行くほど、白根しらねが岳だけ跡に見みなして歩あゆむ。左の山際やまぎはに観音堂あり。花山くわざんの法皇、三十三所の巡礼とげさせたまひて後のち、大慈大悲の像を安置あんちしたまひて、那谷なたと名付たまふとなり。那智なち・谷汲たにぐみの二字を分わかちはべりしとぞ。奇石きせきさまざまに、古松こしょう植ゑならべて、萱葺かやぶきの小堂しょうどう、岩の上に造りかけて、殊勝の土地なり。

  石山いしやまの石より白し秋の風


山中

 温泉いでゆに浴す。その功有間ありまに次ぐといふ。

  山中やまなかや菊はたをらぬ湯の匂にほひ

 あるじとするものは久米之助くめのすけとて、いまだ小童せうどうなり。かれが父、誹諧を好きて、洛らくの貞室ていしつ若輩の昔、ここに来たりしころ、風雅に辱はづかしめられて、洛に帰りて貞徳ていとくの門人となつて世に知らる。功名の後のち、この一村いっそん判詞はんしの料を請うけずといふ。今更いまさら昔むかし語がたりとはなりぬ。


山中 那谷 多太神社 金沢 越中路 市振

2021年9月25日

酒田 ~ 越後路/8 奥の細道

奥の細道図

酒田

 羽黒を立ちて、鶴つるが岡をかの城下、長山氏重行ながやまうじじゅうかうといふ武士もののふの家に迎むかへられて、誹諧一巻ひとまきあり。左吉もともに送りぬ。川舟に乗つて酒田の港に下る。淵庵不玉えんあんふぎょくといふ医師くすしの許もとを宿とす。


  あつみ山や吹浦ふくうらかけて夕涼すゞみ


  暑き日を海に入いれたり最上川


象潟

 江山こうざん水陸の風光数かずを尽つくして、今象潟きさがたに方寸ほうすんを責せむ。酒田の港より東北のかた、山を越え礒いそを伝ひ、いさごを踏ふみて、その際さい十里、日影やや傾かたぶくころ、汐風真砂まさごを吹き上げ、雨朦朧もうろうとして鳥海ちょうかいの山隠かくる。闇中あんちゅうに模索して、「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色せいしょくまたたのもしきと、蜑あまの苫屋とまやに膝ひざを入れて、雨の晴るるを待つ。その朝あした、天よく晴れて、朝日はなやかにさし出いづるほどに、象潟きさかたに舟を浮うかぶ。まづ能因嶋のういんじまに船を寄よせて、三年幽居の跡を訪とぶらひ、向むかうの岸きしに舟をあがれば、「花の上漕こぐ」とよまれし桜の老おい木き、西行さいぎょう法師の記念かたみを残のこす。江上かうしゃうに御陵みささぎあり、神功后宮じんぐうこうぐうの御墓みはかといふ。寺を干満珠寺かんまんじゅじといふ。このところに行幸みゆきありしこといまだ聞かず。いかなることにや。この寺の方丈ほうぢょうに座して簾すだれを捲まけば、風景一眼の中うちに尽きて、南に鳥海、天をささへ、その影映うつりて江にあり。西はむやむやの関、路みちを限かぎり、東に堤を築きづきて、秋田に通かよふ道遥はるかに、海北にかまへて、波うち入るる所を汐越しほごしといふ。江の縦横じゅうおう一里ばかり、俤おもかげ松島に通かよひて、また異ことなり。松島は笑ふがごとく、象潟は憾うらむがごとし。寂しさに悲しびを加くはへて、地勢魂たましひを悩なやますに似たり。


  象潟や雨に西施せいしがねぶの花


  汐越や鶴つる脛はぎぬれて海涼し


    祭礼


  象潟や料理何食くふ神祭      曽良


美濃の国の商人

  蜑あまの家やや戸板を敷きて夕涼ゆうすゞみ   低耳ていじ


    岩上がんじやうに雎鳩みさごの巣を見みる


  波越こへぬ契ちぎりありてや雎鳩みさごの巣  曽良


越後路

 酒田さかたの余波なごり日を重かさねて、北陸道ほくろくどうの雲に望のぞむ、遙々ようようの思おもひ胸むねをいたましめて加賀かがの府ふまで百卅里ひゃくさんじゅうりと聞く。鼠ねずの関を越こゆれば、越後えちごの地に歩行あゆみを改あらためて、越中えっちゅうの国市振いちぶりの関せきに到いたる。この間かん九日ここのか、暑湿しょしつの労ろうに神しんを悩なやまし、病やまいおこりて事ことをしるさず。


  文月ふみづきや六日むいかも常つねの夜には似にず


  荒海あらうみやや佐渡さどによこたふ天あまの河がわ


2021年9月12日

尾花沢 ~ 出羽三山/7 奥の細道

奥の細道図

尾花沢

 尾花沢おばねざわにて清風せいふうといふ者を尋たづぬ。かれは富とめる者ものなれども、志こころざし卑いやしからず。都にも折々をりをり通かよひて、さすがに旅の情なさけをも知りたれば、日ごろとどめて、長途ちょうどのいたはり、さまざまにもてなしはべる。


  涼すずしさをわが宿にしてねまるなり


  這はひ出いでよ飼屋かひやが下したの蟾ひきの声


  眉まゆ掃はきを俤おもかげにして紅粉べにの花


  蚕飼こがひする人は古代の姿すがたかな  曽良


立石寺

 山形領やまがたりょうに立石寺りゅうしゃくじといふ山寺あり。慈覚大師じかくだいしの開基にして、殊ことに清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧すゝむるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間かん七里ばかりなり。日いまだ暮れず。梺ふもとの坊に宿借り置て、山上の堂に登る。岩に巌いはほを重かさねて山とし、松栢しょうはく年旧としふり、土石老おいて苔こけ滑なめらかに、岩上がんじょうの院々扉とびらを閉ぢて物の音きこえず。岸を巡めぐり、岩を這はひて仏閣ぶっかくを拝し、佳景かけい寂寞じゃくまくとして心澄すみゆくのみおぼゆ。

  閑しずかさや岩にしみ入る蝉せみの声


最上川

 最上川もがみがわ乗のらんと、大石田おおいしだといふ所に日和ひよりを待つ。ここに古き誹諧の種落ちこぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角ろかく一声いっせいの心をやはらげ、この道にさぐり足あしして、新古しんこふた道に踏ふみ迷まよふといへども、道みちしるべする人しなければと、わりなき一巻ひとまきを残しぬ。このたびの風流ここに至いたれり。

 最上川は陸奥みちのくより出いでて、山形を水上みなかみとす。碁点ごてん・隼はやぶさなどいふ、恐おそろしき難所なんじょあり。板敷山いたじきやまの北を流れて、果ては酒田さかたの海に入いる。左右山覆おほひ、茂みの中に船を下くだす。これに稲積つみたるをや、稲船いなぶねといふならし。白糸の滝は青葉の隙々ひまひまに落ちて、仙人堂、岸に臨のぞみて立つ。水みなぎつて舟危あやふし。

  五月雨さみだれを集あつめて早はやし最上川もがみがわ


出羽三山

 六月三日、羽黒山はぐろさんに登る。図司左吉ずしさきちといふ者を尋ねて、別当代べっとうだい会覚阿闍利えがくあじゃりに謁えつす。南谷みなみだにの別院に舎やどりして、憐愍れんみんの情こまやかにあるじせらる。
 四日、本坊にをゐて誹諧はいかい興行こうぎょう。

  ありがたや雪をかほらす南谷みなみだに


 五日、権現ごんげんに詣まうづ。当山開闢かいびゃく能除大師のうじょだいしはいづれの代よの人といふことを知しらず。延喜式えんぎしきに「羽州うしゅう里山の神社」とあり。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「鳥の毛羽をこの国の貢みつぎものに献たてまつる」と、風土記ふどきにはべるとやらん。月山がっさん・湯殿ゆどのを合はせて三山とす。当寺、武江東叡ぶこうとうえいに属して、天台止観てんだいしかんの月明らかに、円頓融通えんどんゆずうの法のりの灯ともしびかかげそひて、僧坊棟むねを並べ、修験行法しゅげんぎょうほうを励まし、霊山霊地の験効げんかう、人貴たふとびかつ恐る。繁栄長とこしなえにして、めでたき御山おやまと謂いつつべし。

 八日、月山に登のぼる。木綿ゆふしめ身に引きかけ、宝冠に頭かしらを包み、強力ごうりきといふものに導かれて、雲霧山気うんむさんきの中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月にちぐわち行道ぎょうどうの雲関うんかんに入るかと怪あやしまれ、息絶たえ身凍こごえて、頂上に至れば、日没ぼっして月顕あらはる。笹を敷き、篠しのを枕まくらとして、臥ふして明くるを待つ。日出いでて雲消ゆれば、湯殿に下る。

 谷の傍かたはらに鍛治小屋かじごやといふあり。この国の鍛治だんや、霊水を撰えらびて、ここに潔斎して劔つるぎを打ち、終つひに月山と銘を切って世に賞せらる。かの龍泉りようせんに剣つるぎを淬にらぐとかや、干将かんしやう・莫耶ばくやの昔むかしを慕したふ。道に堪能かんのうの執しふあさからぬこと知られたり。岩に腰掛かけてしばし休やすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばに開けるあり。降り積む雪の下に埋うづもれて、春を忘れぬ遅おそ桜ざくらの花の心わりなし。炎天えんてんの梅花ここにかをるがごとし。行尊ぎょうそん僧正の哥うたここに思ひ出いでて、猶なほあはれも、、、、まさりておぼゆ。総じてこの山中さんちゅうの微細みさい、行者の法式として他言することを禁ず。よりて筆をとどめて記しるさず。
 坊に帰れば、阿闍利あじゃりの求めによりて、三山巡礼の句々、短冊たんじゃくに書く。


  涼しさやほの三日月みかづきの羽黒山はぐろさん


  雲の峰いくつ崩くづれて月の山


  語られぬ湯殿にぬらす袂たもとかな


  湯殿山銭踏ふむ道の涙かな  曽良


出羽三山 最上川 立石寺 尾花沢

2021年9月8日

瑞巌寺 ~ 尿前の関/6 奥の細道

奥の細道図

瑞巌寺

 十一日、瑞巌寺ずいがんじに詣まうづ。当寺とうじ三十二世の昔、真壁まかべの平四郎へいしろう、出家して入唐にっとう、帰朝の後のち開山かいざんす。その後のちに雲居うんご禅師の徳化とくげによりて、七堂甍いらか改まりて、金壁こんぺき荘厳しょうごん光をかかやかし、仏土ぶつど成就じょうじゅの大伽藍だいがらんとはなれりける。かの見仏聖けんぶつひじりの寺はいづくにやと慕したはる。


石巻

 十二日、平泉ひらいづみと心ざし、姉歯あねはの松・緒絶をだえの橋など聞き伝へて、人跡じんせきまれに、雉兎蒭蕘すうぜうの行きかふ道そことも分わかず、終つひに道踏ふみたがへて、石巻いしのまきといふ湊みなとに出いづ。「こがね花咲さく」とよみて奉たてまつりたる金華山きんかさん、海上かいしやうに見わたし、数百の廻船くわいせん入江につどひ、人家じんか地をあらそひて、竈かまどの煙けぶり立ち続けたり。思ひがけずかかる所にも来きたれるかなと、宿借からんとすれど、さらに宿貸かす人なし。漸やうやうまどしき小家こいへに一夜いちやを明あかして、あくればまた知しらぬ道まよひ行く。袖の渡わたり・尾おぶちの牧・真野まのの萱かや原などよそ目に見て、遥はるかなる堤つつみを行く。心細き長沼に添そふて、戸伊摩といまといふ所に一宿いっしゅくして、平泉にいたる。その間廿余里にじゅうよりほどとおぼゆ。


平泉

 三代の栄耀えとう一睡の中うちにして、大門だいもんの跡は一里こなたにあり。秀衡ひでひらが跡は田野でんやになりて、金鶏山きんけいざんのみ形を残す。まづ高館たかだちに登のぼれば、北上川きたかみがわ、南部より流るる大河なり。衣川ころもがはは、和泉いづみが城じょうを巡めぐりて、高館の下もとにて大河に落ち入る。泰衡やすひららが旧跡は、衣ころもが関せきを隔てて、南部口をさし堅かため、夷えぞを防ふせぐと見えたり。さても、義臣すぐってこの城にこもり、功名こうみょう一時いちじの叢くさむらとなる。「国破れて山河あり、城しろ春にして草くさ青あおみたり」と、笠かさうち敷きて、時の移るまで涙なみだを落としはべりぬ。


  夏草や兵つわものどもが夢の跡


  卯うの花に兼房かねふさ見ゆる白毛しらがかな   曽良


 かねて耳驚おどろかしたる二堂にどう開帳す。経堂きょうどうは三将の像を残し、光堂ひかりどうは三代の棺ひつぎを納め、三尊さんぞんの仏ほとけを安置す。七宝散ちり失うせて、珠の扉とびら風に破れ、金こがねの柱霜雪そうせつに朽ちて、すでに頽廃たいはい空虚の叢くさむらとなるべきを、四面新あらたに囲みて、甍いらかを覆ひて雨風を凌しのぎ、しばらく千載せんざいの記念かたみとはなれり。


  五月雨さみだれの降り残のこしてや光堂


尿前の関

 南部道遥はるかに見やりて、岩手いわでの里に泊まる。小黒崎をぐろさき・みづの小島こじまを過ぎて、鳴子なるごの湯より尿前しとまえの関せきにかかりて、出羽ではの国に越えんとす。この道旅人たびびとまれなる所なれば、関守せきもりに怪あやしめられて、やうやうとして関を越こす。大山たいざんを登って日すでに暮れければ、封人ほうじんの家を見かけて舎やどりを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留とうりゅうす。

  蚤のみ虱しらみ馬の尿ばりする枕まくらもと

 あるじのいはく、これより出羽でわの国くにに大山おほやまを隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申もうす。「さらば」といひて人を頼みはべれば、究境くっきゃうの若者、反脇指そりわきざしを横よこたへ、樫かしの杖つえを携たずさへて、われわれが先に立ちて行く。今日こそ必ず危あやふきめにもあふべき日なれと、辛からき思ひをなして後あとについて行く。あるじの云いふにたがはず、高山かうざん森々しんしんとして一鳥いっちょう声きかず、木この下闇したやみ茂りあひて夜よる行くがごとし。雲端うんたんにつちふる心地ここちして、篠しのの中踏み分け踏み分け、水を渡わたり、岩に蹶つまづいて、肌はだに冷つめたき汗を流して、最上もがみの庄しやうに出いづ。かの案内あないせし男子をのこの云いふやう、「この道かならず不用ぶようのことあり。恙つつがなう送をくりまゐいらせて、仕合しあはせしたり」と、喜よろこびて別わかれぬ。後あとに聞きてさへ、胸とどろくのみなり。


2021年5月24日

壷の碑 ~ 松島/5 奥の細道

奥の細道図

壷の碑

壷碑つぼのいしぶみ    市川村多賀城たがじやうにあり。

 つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺ばかりか。苔こけを穿うがちて文字幽かすかなり。四維しゆい国界こくかいの数里をしるす。「この城、神亀じんき元年、按察使あぜつし鎮守府ちんじゅふ将軍大野朝臣東人おおののあそんあずまうとのおくところなり。天平てんぴゃう宝字六年、参議東海東山とうせん節度使同おなじく将軍恵美朝臣えみのあそん朝獦あさかり修造しゆぞう而、十二月朔日ついたち」とあり。聖武しやうむ皇帝の御時おほんときに当たれり。昔よりよみ置ける歌枕、多く語り伝ふといへども、山崩くづれ、川流れて、道改あらたまり、石は埋うづもれて土に隠れ、木は老て若木わかぎに代はれば、時移り、代よ変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここにいたりて疑ひなき千歳せんざいの記念かたみ、今眼前に古人の心を閲けみす。行脚あんぎやの一徳、存命の悦び、羈旅きりょの労ろうを忘れて、涙も落つるばかりなり。


末の松山・塩竈

 それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造りて末松山まつしょうざんといふ。松のあひあひ皆みな墓原にて、翼はねを交かはし枝を連ぬる契りの末も、終ついにはかくのごときと、悲しさも増まさりて、塩竈しおがまの浦に入相いりあひの鐘を聞く。五月雨さみだれの空いささか晴れて、夕月夜ゆうづくよ幽かすかに、籬まがきが島もほど近し。蜑あまの小舟おぶね漕こぎ連つれて、肴さかな分わかつ声々こえごえに「つなでかなしも」とよみけん心も知しられて、いとど哀あはれなり。その夜、目盲めくら法師の、琵琶びはを鳴ならして、奥おく浄瑠璃じょうるりといふものを語かたる。平家にもあらず、舞まひにもあらず、ひなびたる調子うち上あげて、枕まくら近ちかうかしましけれど、さすがに辺国の遺風忘れざるものから、殊勝しゆしやうにおぼえらる。

 早朝、塩竃しほがまの明神みやうじんに詣まうづ。国守再興せられて、宮柱みやばしらふとしく、彩椽さいてんきらびやかに、石の階きざはし九仞きうじんに重なり、朝日朱あけの玉垣をかかやかす。かかる道の果て、塵土ぢんどの境まで、神霊あらたにましますこそわが国の風俗なれと、いと貴たうとけれ。神前に古き宝燈あり。鉄かねの戸とびらの面おもてに「文治三年和泉いづみの三郎さぶろう寄進」とあり。五百年来の俤おもかげ、今目の前に浮うかびて、そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士なり。佳命かめい今に至いたりて慕したはずといふことなし。まことに「人よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれに従したがふ」といへり。日すでに午ごに近し。船を借りて松島に渡わたる。その間かん二里余り、雄島をじまの磯いそに着つく。


松島

 そもそも、ことふりにたれど、松島は扶桑ふそう第一の好風にして、およそ洞庭どうてい・西湖せいこを恥ぢず。東南より海を入れて、江の中うち三里、浙江せつかうの潮うしほを湛たゝふ。島々の数を尽くして、欹そばだつものは天を指ゆびさし、伏ふすふすものは波に匍匐はらばふ。あるは二重ふたへにかさなり、三重みへに畳たたみて、左に分かれ右に連なる。負へるあり、抱いだけるあり。児孫じそん愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉しえふ汐風に吹きたはめて、屈曲おのづから矯ためためたるがごとし。その気色けしきよう然ぜんとして美人の顔かんばせを粧よそほふ。ちはやふる神の昔むかし、大山祗おおやまづみのなせるわざにや。造化ぞうくわの天工、いづれの人か筆をふるひ、詞ことばを尽くさむ

 雄島が磯は、地続きて海に成出なりいでたる島なり。雲居禅師うんごぜんじの別室の跡、坐禅石ざぜんせきなどあり。はた、松の木陰こかげに世をいとふ人も稀々まれまれ見えはべりて、落穂おちぼ・松笠まつかさなど打うちけふりたる草の庵いおり、閑しずかに住すみなし、いかなる人とはしられずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海に映うつりて、昼の眺ながめまた改あらたむ。 江上こうしょうに帰りて宿を求むれば、窓を開ひらき二階を作りて、風雲の中うちに旅寝たびねするこそ、あやしきまで妙たえなる心地ここちはせらるれ

  松島や鶴つるに身を借かれほととぎす  曽良

予は口をとぢて眠ねむらんとしていねられず。旧庵を別わかるる時、素堂そどう松島の詩あり。原安適はらあんてき、松が浦島うらしまの和歌を贈らる。袋を解ときてこよひの友とす。かつ、杉風さんぷう・濁子じょくし発句ほっくあり。


2021年3月19日

飯塚の里 〜 宮城野/4 奥の細道

奥の細道図

飯塚の里

 月の輪の渡わたしを越えて、瀬せの上うへといふ宿しゅくに出いづ。佐藤さとう庄司しょうじが旧跡は、左の山際やまぎは一里半ばかりにあり。飯塚いひづかの里鯖野さばのと聞きて尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ、庄司しょうじが旧館なり。麓ふもとに大手おほての跡など、人の教おしふるにまかせて涙を落とし、またかたはらの古寺に一家いっけの石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂たもとをぬらしぬ。堕涙だるいの石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞こへば、ここに義経よしつねの太刀たち、弁慶べんけいが笈おひをとどめて什物じふもつとす。

  笈おひも太刀たちも五月さつき飾かざれ帋幟かみのぼり

五月さつき朔日ついたちのことにや。

 その夜よ、飯塚に泊とまる。温泉いでゆあれば湯に入りて宿を借かるに、土坐どざに筵むしろを敷きて、あやしき貧家ひんかなり。灯ともしびもなければ、囲炉裏ゐろりの火ほかげに寝所ねどころを設まうけて臥ふす。夜よに入りて雷鳴かみなり、雨しきりに降りて、臥ふせる上より漏もり、蚤のみ・蚊かにせせられて眠ねぶらず、持病さへおこりて、消え入るばかりになん。短夜みじかよの空もやうやう明くれば、また旅立ちぬ。なほ夜よるのなごり、心進すゝまず。馬借かりて桑折こをりの駅に出いづる。遥はるかなる行末ゆくすえをかかへて、かかる病やまひおぼつかなしといへど、羇旅きりょ辺土の行脚あんぎゃ、捨身しゃしん無常の観念、道路どうろに死なん、これ天の命めいなりと、気力いささかとり直なほし、道縦横じゅうおうに踏ふんで伊達だての大木戸を越す。


笠島

 鐙摺あぶみずり・白石しろいしの城じょうを過ぎ、笠島かさしまの郡こほりに入いれば、藤とうの中将実方さねかたの塚つかはいづくのほどならんと人に問へば「これより遥はるか右に見ゆる山際やまぎはの里を、蓑輪みのわ・笠島かさしまといひ、道祖神だうそじんの社やしろ・形見かたみの薄すすき今にあり」と教ふ。このごろの五月雨さみだれに道いとあしく、身疲れはべれば、よそながら眺ながめやりて過すぐるに、蓑輪・笠島も五月雨さみだれのをりに触ふれたりと、

  笠島はいづこ五月さつきのぬかり道


武隈の松

   岩沼宿いはぬまにしゅくす

 武隈たけくまの松にこそ目さむる心地ここちはすれ。根は土際つちぎはより二木ふたきに分かれて、昔の姿失うしなはずと知らる。まづ能因のういん法師思ひ出いづ。往昔そのかみ、陸奥守むつのかみにて下りし人、この木を伐きりて、名取川なとりがわの橋杭はしぐひにせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とは詠よみたり。代々よよ、あるは伐きり、あるひは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた、千歳ちとせの形かたちととのひて、めでたき松の気色けしきになんはべりし。

  武隈たけくまの松見せ申せ遅桜おそざくら

と、挙白きょはくといふ者の餞別したりければ、

  桜より松は二木ふたきを三月みつき越し


宮城野

 名取川を渡つて仙台に入いる。あやめふく日なり。旅宿を求もとめて四五日逗留とうりうす。ここに画工加右衛門かえもんといふ者ものあり。いささか心ある者と聞きて知る人になる。この者、「年ごろ定かならぬ名どころを考へ置きはべれば」とて、一日ひとひ案内す。宮城野みやぎのの萩はぎ茂りあひて、秋の気色思ひやらるる。玉田・横野よこの、躑躅つゝじが岡おかはあせび咲くころなり。日影も漏らぬ松の林に入りて、ここを木きの下したといふとぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社みやしろなど拝みて、その日は暮れぬ。なお、松島・塩竃しほがまの所々ところどころ、画ゑに書きて贈る。かつ、紺の染緒そめをつけたる草鞋わらじ二足餞はなむけす。さればこそ、風流のしれ者、ここに至りてその実まことを顕あらはす。

  あやめ草足に結ばん草鞋わらじの緒を

 かの画図ゑづにまかせてたどり行けば、奥おくの細道の山際やまぎはに、十符とふの菅すげあり。今も年々としどし十符の菅菰すがごもを調ととのへて国守こくしゅに献ずといへり。


2021年2月22日

雲巌寺 〜 信夫の里/3 奥の細道

奥の細道図

雲巖寺

 当国雲巌寺うんがんじの奥おくに仏頂和尚ぶつちゃうをしやう山居さんきょの跡あり。
「竪横たてよこの五尺にたらぬ草の庵いお
結むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書き付けはべり」と、いつぞや聞こえたまふ。その跡見んと、雲岸寺に杖を曳ひけば、人々進すすんでともにいざなひ、若き人多おほく道のほどうち騒さわぎて、おぼえずかの麓に到る。山は奥ある景色にて、谷道遥はるかに、松・杉黒く、苔したゞりて、卯月うづきの天てん今なほ寒し。十景尽つくる所、橋を渡つて山門に入る。

 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後ろの山によぢ登れば、石上せきしやうの小庵せうあん、岩窟がんくつに結むすび掛かけたり。妙禅師めうぜんじの死関しくわん、法雲ほううん法師の石室せきしつを見るがごとし。

  木啄きつつきも庵いほは破やぶらず夏木立なつこだち

と、とりあへぬ一句柱に残しはべりし。


殺生石・遊行柳

 これより殺生石せつしやうせきに行く。館代くわんだいより馬にて送らる。この口付くちづきの男をのこ「短冊たんじゃく得させよ」と乞ふ。やさしきことを望みはべるものかなと、

  野を横に馬牽ひき向むけよほとゝぎす

 殺生石せつしやうせきは温泉いでゆの出いづる山陰やまかげにあり。石の毒気いまだ滅ほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂まさごの色の見えぬほどかさなり死す。

 また、清水しみづ流ながるゝの柳は、蘆野あしのの里にありて、田の畔くろに残る。この所の郡守戸部こほう某なにがしの「この柳見せばや」など、をりをりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日けふこの柳の陰かげにこそ立ち寄りはべりつれ。

  田一枚植ゑて立ち去る柳かな


白河の関

 心もとなき日数かず重なるままに、白河の関にかかりて旅心たびごころ定まりぬ。「いかで都へ」と便たより求もとめしもことわりなり。中なかにもこの関は三関さんくわんの一いつにして、風騒ふうそうの人、心をとどむ。秋風あきかぜを耳に残し、紅葉もみぢを俤おもかげにして、青葉の梢こずゑなおあはれなり。卯うの花の白妙しろたへに、茨むばらの花の咲き添そひて、雪にも越こゆる心地ここちぞする。古人こじん冠を正ただし、衣装を改あらためしことなど、清輔きよすけの筆にもとどめ置かれしとぞ。

  卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曾良


須賀川

 とかくして越え行ゆくままに、阿武隈あふくま川を渡る。左に会津根あひづね高く、右に岩城いわき・相馬さうま・三春みはるの庄しゃう、常陸ひたち・下野しもつけの地をさかひて山連つらなる。影かげ沼といふ所を行くに、今日けふは空曇りて物影映うつらず。

 須賀川すかがはの駅に等窮とうきゅうといふ者ものを尋ねて、四、五日とどめらる。まづ「白河の関いかに越こえつるにや」と問とふ。「長途ちょうどのくるしみ、身心しんじんつかれ、かつは風景に魂奪うばはれ、懐旧かいきゅうに腸はらわたを断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。

  風流ふうりゅうの初めや奥の田植歌たうゑうた

むげにこえんもさすがに」と語れば、脇わき・第三だいさんとつづけて、三巻みまきとなしぬ。

 この宿しゅくのかたはらに、大きなる栗くりの木陰こかげを頼みて、世をいとふ僧あり。橡とちひろふ太山みやまもかくやとしづかに覚えられて、ものに書き付けはべる。その詞ことば、

栗といふ文字もんじは、西の木と書きて、
西方浄土に便りありと、行基ぎょうき菩薩
の一生杖つゑにも柱はしらにもこの木を用ゐ
たまふとかや。

  世の人の見付けぬ花や軒の栗


浅香山・信夫の里

 等窮が宅を出いでて五里ばかり、檜皮ひはだの宿しゅくを離れて浅香山あさかやまあり。道より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころもやや近ちこうなれば、「いづれの草を花がつみとはいふぞ」と、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね、人に問とひ、「かつみかつみ」と尋ね歩ありきて、日は山の端はにかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚くろづかの岩屋一見し、福島に泊まる。

 明あくれば、しのぶもぢ摺ずりの石を尋ねて、信夫しのぶの里さとに行く。遥はるか山陰やまかげの小里に、石半なかば土に埋うづもれてあり。里のわらべの来たりて教へける。「昔はこの山の上にはべりしを、往来ゆききの人の麦草むぎくさを荒あらして、この石を試こころみはべるを憎にくみて、この谷に突つき落とせば、石の面おもて下したざまに伏ふしたり」といふ。さもあるべきことにや。

  早苗さなへとる手もとや昔むかししのぶ摺ずり


信夫の里・浅香山 須賀川 白河の関 遊行柳・殺生石 雲巖寺

2021年2月15日

日光 ~ 黒羽/2 奥の細道

奥の細道図

日光

 卅日みそか、日光山の麓ふもとに泊まる。あるじのいひけるやう、「わが名を仏五左衛門ほとけござえもんといふ。よろづ正直を旨とするゆゑに、人かくは申しはべるまま、一夜いちやの草の枕まくらもうち解とけて休みたまへ」といふ。いかなる仏の濁世塵土ぢょくせぢんどに示現じげんして、かかる桑門そうもんの乞食順礼こつじきじゅんれいごときの人を助けたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別にして、正直偏固へんこの者ものなり。剛毅木訥ごうきぼくとつの仁に近きたぐひ、気禀きひんの清質せいしつもっとも尊ぶべし。

 卯月うづき朔日ついたち、御山おやまに詣拝けいはいす。往昔そのむかし、この御山を「二荒山ふたらさん」と書きしを、空海大師開基かいきの時、「日光」と改あらためたまふ。千歳未来せんざいみらいを悟さとりたまふにや、今この御光みひかり一天にかかやきて、恩沢八荒おんたくはつくわうにあふれ、四民安堵しみんあんどの栖すみか穏やかなり。なほ憚はばかり多くて、筆をさし置きぬ。

  あらたふと青葉あおば若葉わかばの日の光

 黒髪山くろかみやまは、霞かすみかゝりて、雪いまだ白し。

  剃そり捨すてて黒髪山に更衣ころもがへ     曾良そら

 曾良は河合かはひ氏にして、惣五郎そうごろうといへり。芭蕉の下葉したばに軒を並ならべて、予よが薪水しんすいの労を助たすく。このたび、松島・象潟きさがたの眺ながめともにせんことを悦よろこび、かつは羈旅きりょの難をいたはらんと、旅立つ暁あかつき、髪を剃りて、墨染すみぞめにさまを変かへ、惣五を改めて宗悟そうごとす。よって黒髪山の句あり。「衣更ころもがへ」の二字、力ちからありて聞こゆ。

 廿余丁にじゅうよちょう山を登つて、滝あり。岩洞がんとうの頂いただきより飛流して百尺はくせき、千岩の碧潭へきたんに落ちたり。岩窟がんくつに身をひそめ入りて滝の裏より見れば、裏見うらみの滝と申し伝えはべるなり。

  しばらくは滝に籠こもるや夏げの初はじめ


那須野

 那須なすの黒羽くろばねといふ所に知しる人あれば、これより野越のごえにかゝりて、直道すぐみちを行ゆかんとす。遥はるかに一村いっそんを見かけて行ゆくに、雨降り日暮くるる。農夫の家に一夜いちやを借かりて、明くればまた野中のなかを行ゆく。そこに野飼のがひの馬あり。草刈る男をのこに嘆なげき寄よれば、野夫やぷといへどもさすがに情なさけ知しらぬにはあらず。「いかゞすべきや。されどもこの野は東西縦横じゅうわうに分わかれて、うゐうひしき旅人の道踏ふみたがえん、あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」と、貸かしはべりぬ。小ちひさき者ふたり、馬の跡慕したひて走る。ひとりは小姫こひめにて、名を「かさね」といふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、

  かさねとは八重撫子やえなでしこの名なるべし 曾良

やがて人里にいたれば、価あたひを鞍くらつぼに結び付けて馬を返しぬ。


黒羽

 黒羽くろばねの館代くわんだい浄坊寺じょうぼうじ何なに某がしの方かたにおとづる。思ひがけぬあるじの喜び、日夜語り続けて、その弟桃翠たうすいなどいふが、朝夕ちょうせき勤つとめ訪とぶらひ、自みずからの家にも伴ひて、親族の方かたにも招まねかれ、日をふるままに、一日ひとひ郊外に逍遙せうえうして、犬追物いぬおふものの跡を一見いっけんし、那須なすの篠原しのはらを分わけて、玉藻たまもの前まへの古墳を訪とふ。それより八幡宮はちまんぐうに詣まうづ。与一よいち宗高むねたか扇の的まとを射いし時、「別べつしてはわが国の氏神正八幡しやうはちまん」と誓ちかひしも、この神社にてはべると聞けば、感應かんのう殊ことにしきりにおぼえらる。暮るれば桃翠宅に帰る。

 修験しゅげん光明寺くわうみやじといふあり。そこに招まねかれて行者堂ぎょうじゃだうを拝す。

  夏山に足駄あしだを拝む首途かどでかな


2021年2月12日

発端 ~ 室の八島/1 奥の細道

蕪村「奥の細道図上巻」発端、旅立ち、草加、室の八島

発端

 月日つきひは百代はくたいの過客くわかくにして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯しやうがいを浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖すみかとす。古人も多く旅に死せるあり。 予よも、いづれの年よりか、片雲へんうんの風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜かいひんにさすらへて、去年こぞの秋、江上かうしやうの破屋はをくに蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞かすみの空に、白河の関越こえんと、そぞろ神がみのものにつきて心を狂くるはせ、道祖神どうそじんの招まねきにあひて、取るもの手につかず、股引ももひきの破れをつづり、笠かさの緒を付けかへて、三里に灸きうすうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風さんぷうが別墅べっしょに移うつるに、

  草の戸も住み替はる代よぞ雛ひなの家

表八句おもてはちくを庵あんの柱に縣かけ置く。


旅立ち

 弥生やよひも末すえの七日、あけぼのの空朧々ろうろうとして、月は有明ありあけにて光おさまれるものから、富士不二の嶺幽かすかに見えて、上野うえの・谷中やなかの花の梢こずゑ、またいつかはと心細ぼそし。むつまじき限りは宵よひよりつどひて、舟に乗りて送る。千住せんぢゆといふ所にて船を上あがれば、前途せんど三千里の思い胸にふさがりて、幻まぼろしの巷ちまたに離別りべつの涙なみだをそゝぐ。

  行く春や鳥啼なき魚うをの目は泪なみだ

これを矢立やたての初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中みちなかに立ち並ならびて、後影うしろかげの見ゆるまではと見送みおくるなるべし。


草加

 ことし、元禄二年げんろくふたとせにや、奥羽長途ちょうどの行脚あんぎゃただかりそめに思ひ立ちて、呉天ごてんに白髪はくはつの憾うらみを重かさぬといへども、耳に触れれていまだ目に見ぬ境さかひ、もし生て帰らばと、定めなき頼みの末すえをかけ、その日やうやう草加そうかといふ宿しゅくにたどり着きにけり。痩骨そうこつの肩にかゝれる物、まづ苦くるしむ。只ただ身すがらにと出いで立たち侍はべるを、紙子かみこ一衣いちえは夜の防ふせぎ、浴衣ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞はなむけなどしたるは、さすがに打捨うちすてがたくて、路頭ろとうの煩わずらひとなれるこそわりなけれ。


室の八島

 室むろの八島やしまに詣けいす。同行どうぎやう曾良そらがいはく、「この神は木この花咲耶姫はなさくやひめの神と申もうして、富士一躰いったいなり。無戸室うつむろに入いりて焼きたまふ、誓ちかひの御中みなかに、火々出見ほほでみの尊みこと生まれたまひしより、室むろの八島やしまと申まうす。また煙けぶりを読よみ習ならはし侍はべるもこの謂いはれなり。はた、このしろといふ魚うをを禁ず」。 縁記えんぎの旨、世に伝ふことも侍はべりし。


室の八島 草加 旅立ち 発端