2021年3月31日

春菜摘み

野良坊菜と別所堂山古墳 春分/03.31 上州藤岡

野良坊菜と別所堂山古墳 春分/03.31 上州藤岡

黄砂の影響か霞がかってたけど暖かな春の日でした。春菜摘みを三首あげとくだよ (^-^)

巻第十 煙を詠む

1879春日野かすがのけぶり立つ見ゆ
をとめらし春野のうはぎ摘みてらしも

  春日野に煙が立ちのぼるのが見える。おとめらが春野のウハギを摘んで煮ているに違いない。うはぎ「ウハギ」はヨメナ。春、その若芽を摘んで食用にする
  春の初めにおとめたちが野山に出て、若芽を摘んで共食きょうしょくし、成女戒を受ける行事があった。そのさまを想像している

巻第ニ 讃岐狭岑嶋視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌

221妻もあらばみてげまし
沙彌さみの山のうはぎ過ぎにけらずや

  もしそばに妻でもいたら摘んで食べもしように。沙彌の山の野のヨメナは食べる盛りが過ぎてしまった…

巻第ハ 尾張連をはりのむらじの歌 名闕名を欠く

1421春山の咲きのををりに 春菜はるな摘むいも白紐しらひも
見らくしよしも

  春山の花の咲き乱れている所で、春の若菜を摘んでいる娘たちの着物の白い紐を見ることはよいものだ
  「ををり」は花がたくさん咲いて枝のたわむこと…

2021年3月30日

オオミヤスミレかも/03.29

昨日は初夏の陽が照りつけ軽々と25℃を突破した暑い日でした。で、染井吉野がそろそろ見頃かもと七輿山古墳までひとっ走り。て、10分ほどなんだけどね…

ここの桜はみんな老木です。染井吉野は50年とかで、心配してた頃もあったけど、花弁が重なり合うようにして咲く、艶やかで元気いっぱいの桜花は健在でした。ふんなで、日本タンポポや立坪スミレ、冠雪の浅間山などを撮りつつ後円部から前方部へと歩きました。

上毛新聞 2020/12/01
ヤマト王権で重要地位 藤岡・七輿山古墳 全長150メートル超 同時期で国内3位の規模
↓ 紙面から引用

継体天皇支えた有力豪族か
 同時期の古墳を比較すると、531年に没した継体天皇の墓とされる全長約190メートルの「今城塚古墳」(大阪府高槻市)が最大。七輿山は継体天皇と姻戚関係にある尾張氏の墓とされる151メートルの断夫山だんぷさん古墳(名古屋市)と並ぶだけでなく、同じ設計図で造ったと思われるほど形状も相似している。
 歴博の右島和夫特別館長によると、越前(福井県)から皇位に就いた継体天皇の政治的基盤は東国にあり、七輿山の被葬者は新しい王統を支えた有力豪族との見方がある。
 右島さんは「東国の勢力は王権にとって親衛隊的な、軍事的な基盤になったと考えられる。七輿山ができた年代は、ヤマト王権が東国に直轄地屯倉みやけを設け、畿内と東日本の関係が深くなる時期とも近い。この時期になぜ国内有数の古墳があるのか。興味深い」と話す。

↑ ここまで、紙面から引用

日当たり時間の永い前方部の桜たちはもう満開でした。そこにヒヨドリが次々とやってきて桜花を啄んでは飛び去っていきました。長閑な春のひと時でした。

戻りながら竹沼に寄りました。周囲4km、2千本ほどの染井吉野が植えてあります。七輿山の桜よりは若木です。こっちは蕾が多めでまだ7部咲きくらいだったかも…
陰っちゃったけど撮っとこうか、と歩きました。たら、2輪、1輪、また2輪とスミレに逢えました。まっ、こんなもんでよか…、と再び歩き始めました。たらね、8輪咲きで蕾を3つ持っている大株がいました。スミレにしては緩んだ姿だし、ノジにしては華やか過ぎるし… あれ、これが、オオミヤスミレ(スミレxノジ)… ふんなで何枚か撮ってきてモニターしてるところです。それなりの情報はあるんだけどハッキリしません。物臭狸に訊いてみるか… (´ー`)

2021年3月29日

さくらに如月十五日の月/西行

さくらに如月十五日の月 春分/03.27 18:15 上州藤岡

西行『山家集』より

ねかはくは花のしたにて春しなん
そのきさらきの もちつきのころ

歌のとおり
陰暦ニ月十六日、釈尊涅槃の日に入寂…

まだ、西行で書くには知識不足ですが
最晩年の「たはぶれ歌」十三首を…

うなひこがすさみにならすむぎぶえの
こゑにをどろく夏のひるぶし

むかしかないりこかけとかせしことよ
あこめのそでにたまだすきして

たけむまをつゑにもけふはたのむかな
わらはあそびをおもひいでつゝ

むかしせしかくれあそびになりなばや
かたすみもとによりふせりつゝ

しのためてすゝずめゆみはるをのわらは
ひたひえぼしのほしげなるかな

我もさぞにはのいさごのつちあそび
さておいたてるみにこそありけれ

たかをでらあはれなりけるつとめかな
やすらい花とつづみうつなり

いたきかなしやうぶかぶりのちまき馬は
うなひわらはのしわざとおぼえて

いりあひのをとのみならず山でらは
ふみよむこゑもあはれなりけり

こひしきをたはぶられしそのかみの
いわけなかりしをりのこゝろは

いしなごのたまのをちくるほどなさに
すぐる月日はかはりやはする

いまゆらもさでにかゝれるいさゝめの
いさ又しらずこひざめのよや

ぬなわはふいけにしづめるたていしの
たてたることもなきみぎはかな

2021年3月22日

如月十日の月 春分/03.22 22:25

如月十日の月 春分/03.22 22:25 上州藤岡

食糧調達して戻ったら庚申山に月が下りてました。昨日なら上弦の月でした (´ー`)
明日の日の出は 5:43、日の入りは 17:58 とか。そろそろ「さくら」を撮りださんとな…

今日は「春分 2008」から3投稿しました。全部 03/30 のパチリです。
エイザンx???思い出のハナネコノメ土筆に野路菫に仙洞草 (^-^)

2021年3月19日

飯塚の里 〜 宮城野/4 奥の細道

奥の細道図

飯塚の里

 月の輪のわたしを越えて、うへといふ宿しゅくづ。佐藤さとう庄司しょうじが旧跡は、左の山際やまぎは一里半ばかりにあり。飯塚いひづかの里鯖野さばのと聞きて尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ、庄司しょうじが旧館なり。ふもと大手おほての跡など、人のおしふるにまかせて涙を落とし、またかたはらの古寺に一家いっけの石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、たもとをぬらしぬ。堕涙だるいの石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶をへば、ここに義経よしつね太刀たち弁慶べんけいおひをとどめて什物じふもつとす。

  おひ太刀たち五月さつきかざ帋幟かみのぼり

五月さつき朔日ついたちのことにや。

 その、飯塚にまる。温泉いでゆあれば湯に入りて宿をるに、土坐どざむしろを敷きて、あやしき貧家ひんかなり。ともしびもなければ、囲炉裏ゐろりかげに寝所ねどころまうけてす。に入りて雷鳴かみなり、雨しきりに降りて、せる上よりり、のみにせせられてねぶらず、持病さへおこりて、消え入るばかりになん。短夜みじかよの空もやうやう明くれば、また旅立ちぬ。なほよるのなごり、心すゝまず。馬りて桑折こをりの駅にづる。はるかなる行末ゆくすえをかかへて、かかるやまひおぼつかなしといへど、羇旅きりょ辺土の行脚あんぎゃ捨身しゃしん無常の観念、道路どうろに死なん、これ天のめいなりと、気力いささかとりなほし、道縦横じゅうおうんで伊達だての大木戸を越す。


笠島

 鐙摺あぶみずり白石しろいしじょうを過ぎ、笠島かさしまこほりれば、とうの中将実方さねかたつかはいづくのほどならんと人に問へば「これよりはるか右に見ゆる山際やまぎはの里を、蓑輪みのわ笠島かさしまといひ、道祖神だうそじんやしろ形見かたみすすき今にあり」と教ふ。このごろの五月雨さみだれに道いとあしく、身疲れはべれば、よそながらながめやりてぐるに、蓑輪・笠島も五月雨さみだれのをりにれたりと、

  笠島はいづこ五月さつきのぬかり道


武隈の松

   岩沼宿いはぬまにしゅくす

 武隈たけくまの松にこそ目さむる心地ここちはすれ。根は土際つちぎはより二木ふたきに分かれて、昔の姿うしなはずと知らる。まづ能因のういん法師思ひづ。往昔そのかみ陸奥守むつのかみにて下りし人、この木をりて、名取川なとりがわ橋杭はしぐひにせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とはみたり。代々よよ、あるはり、あるひは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた、千歳ちとせかたちととのひて、めでたき松の気色けしきになんはべりし。

  武隈たけくまの松見せ申せ遅桜おそざくら

と、挙白きょはくといふ者の餞別したりければ、

  桜より松は二木ふたき三月みつき越し


宮城野

 名取川を渡つて仙台にる。あやめふく日なり。旅宿をもとめて四五日逗留とうりうす。ここに画工加右衛門かえもんといふものあり。いささか心ある者と聞きて知る人になる。この者、「年ごろ定かならぬ名どころを考へ置きはべれば」とて、一日ひとひ案内す。宮城野みやぎのはぎ茂りあひて、秋の気色思ひやらるる。玉田・横野よこの躑躅つゝじおかはあせび咲くころなり。日影も漏らぬ松の林に入りて、ここをしたといふとぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社みやしろなど拝みて、その日は暮れぬ。なお、松島・塩竃しほがま所々ところどころに書きて贈る。かつ、紺の染緒そめをつけたる草鞋わらじ二足はなむけす。さればこそ、風流のしれ者、ここに至りてそのまことあらはす。

  あやめ草足に結ばん草鞋わらじ

 かの画図ゑづにまかせてたどり行けば、おくの細道の山際やまぎはに、十符とふすげあり。今も年々としどし十符の菅菰すがごも調ととのへて国守こくしゅに献ずといへり。


2021年3月15日

如月三日の月/03.15 18:18

如月三日の月 啓蟄/03.15 18:18 上州藤岡 如月三日の月 啓蟄/03.15 18:18 上州藤岡 如月三日の月 啓蟄/03.15 18:18 上州藤岡

今夕です。如月三日の月をパチってきました。啓蟄になっての初パチリです。しかし15日は末候「菜虫化蝶なむしちょうとなる」だし、あさって17日は彼岸の入り、20日はもう二十四節気の春分です。と、分ってはいるんだけど、世相を鑑みると野を歩く気になれなくて… (ρ_;)

万葉集 巻第十九 二十三日、興にりて作る歌二首

4290春の野に霞たなびき うら悲し この夕かげにうぐひす鳴くも

4291わが宿やどのい笹群竹むらたけ 吹く風の音のかそけきこのゆふべかも

二十五日、作る歌

4292うらうらに照れる春日はるひ雲雀ひばりあがり こころかなしも 一人ひとりし思へば

春日遅々鶬鶊正啼 悽惆之意非歌難撥耳
仍作此歌式展締緒 但此巻中不稱
作者名字徒録年月所處縁起者
皆大伴宿祢家持裁作歌詞也

春日遅遅ちちにして、鶬鶊ひばり正にく。悽惆さいもうこころ、歌に非ずははらひ難し。よりて此の歌を作り、もちて締緒ていしょぶ。但し此の巻中、作者の名字をはず、ただ年月・所処・縁起のみをしるせるは、皆大伴宿禰家持の裁作つくれる歌詞なり。

2021年3月11日

菜の花 アオサギ しら梅/02.07

菜の花 立春/02.07 上州藤岡 アオサギ 立春/02.07 上州藤岡 しら梅 立春/02.07 上州藤岡

「立春 2020」、「立春 2019」とブログしました。「立春 2021」も、と思ったんだけど2月3日はパチリなしでした。7日がいちばん近くて、本郷ほんごうで菜の花とアオサギ、保美ほみへ移動して実梅を何枚か撮ってます。ほんで、タグクラウドの "立春" タップで3記事ともでるとさ (°-°;

3.11 あれから十年経ちました。ウィキペディア東日本大震災 でか過ぎだよ↓ひとつだけ
ネット界もドタバタ …NHKの映像がUstreamで勝手に流されている… (。_゜) ? SoftBank 発です

2021年3月4日

神いくさ/日本の伝説/柳田国男

神いくさ『日本の伝説』     柳田国男

 日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました。人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に、山も競争せずにはいられなかったのかと思われます。古いところでは、常陸の筑波山つくばさんが、低いけれども富士よりも好い山だといって、そのいわれを語り伝えておりました。大昔御祖神みおやがみが国々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行って一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗にいなめの祭りで家中が物忌みをしていますから、お宿は出来ませぬといって断りました。筑波の方ではそれと反対に、今夜は新嘗ですけれども構いません。さあさあお泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。神様は非常に御喜びで、この山永く栄え人常にきたり遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないようにと、めでたい多くの祝い言を、歌に詠んで下されました。筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新嘗の前の晩に大切なお客様を、帰してしまった罰だといっておりますが、これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人ばかりが、語り伝えていた昔話なのであります。「常陸国風土記。茨城県筑波郡」

 富士と浅間山が煙りくらべをしたという話も、ずいぶん古くからあった様ですが、それはもう残っておりません。不思議なことには富士の山でまつる神を、以前から浅間大神ととなえておりました。富士の競争者の筑波山の頂上にも、どういうわけでか浅間せんげん様が祀ってあります。それから伊豆半島の南の端、雲見くもみ御嶽山みたけやまにも浅間の社というのがありまして、この山も富士と非常に仲が悪いという話でありました。いつの頃からいい始めたものか、富士山の神は木花開耶媛このはなさくやひめ、この山の神はその御姉の磐長媛いわながひめで、姉神は姿が醜かった故に神様でもやはり御ねたみが深く、それでこの山に登って富士のうわさをすることが、出来なかったというのであります。「伊豆志其他。静岡県賀茂郡岩科村雲見」

 ところがこれから僅二里あまり離れて、下田しもだの町の後には、下田富士という小山があって、それは駿河の富士の妹神だといっております。そうして姉様よりも更に美しかったので、顔を見合せるのがいやで、間に天城山あまぎさん屏風びょうぶのようにお立てになった。それだから奥伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいうそうであります。おおかたもと一つの話が、後にこういう風に変って来たものだろうと思います。「郷土研究一編。同県同郡下田町」

 越中舟倉山ふなくらやまの神は姉倉媛あねくらひめといって、もと能登の石動山せきどうさん伊須流伎彦いするぎひこの奥方であったそうです。その伊須流伎彦が後に能登の杣木山そまきやまの神、能登媛を妻になされたので、二つの山の間に嫉妬しっとの争いがあったと申します。布倉山ぬのくらやまの布倉媛は姉倉媛に加勢し、甲山かぶとやま加夫刀彦かぶとひこは能登媛を援けて、大きな神戦かみいくさとなったのを、国中の神々が集って仲裁をなされたと伝えております。一説には毎年十月十二日の祭りの日には、舟倉と石動山と石合戦があり、舟倉の権現がつぶてを打ちたもう故に、この山のふもとの野には小石がないのだともいっておりました。「肯構泉達録等。富山県上新川郡船崎村舟倉」

 これと反対に、阿波の岩倉山は岩の多い山でありました。それは大昔この国の大滝山と、高越山こうつさんとの間に戦争があった時、双方から投げた石がここに落ちたからといっております。そうして今でもこの二つの山に石が少いのは、互にわが山の石を投げ尽したからだということであります。「美馬郡郷土誌。徳島県美馬郡岩倉村」

 それよりも更に有名な一つの伝説は、野州やしゅうの日光山と上州の赤城山との神戦でありました。古い二荒ふたら神社の記録に、くわしくその合戦のあり様が書いてありますが、赤城山はむかでの形を現して雲に乗って攻めて来ると、日光の神は大蛇になって出でてたたかったということであります。そうして大蛇はむかでにはかなわぬので、日光の方が負けそうになっていた時に、猿丸太夫という弓の上手な青年があって、神に頼まれて加勢をして、しまいに赤城の神をおい退けた。その戦をした広野を戦場が原といい、血は流れて赤沼となったともいっております。誰が聞いても、ほんとうとは思われない話ですが、以前は日光の方ではこれを信じていたと見えて、後世になるまで、毎年正月の四日の日に、武射ぶしゃ祭りと称して神主が山に登り赤城山の方に向って矢を射放つ儀式がありました。その矢が赤城山に届いて明神の社の扉に立つと、氏子たちは矢抜きの餅というのを供えて、扉の矢を抜いてお祭りをするそうだなどといっておりましたが、果してそのようなことがあったものかどうか。赤城の方の話はまだわかりません。「二荒山神伝。日光山名跡志等」

 しかし少くとも赤城山の周囲においても、この山が日光と仲が悪かったこと、それから大昔神戦があって、赤城山が負けて怪我をなされたことなどをいい伝えております。利根郡老神おいがみの温泉なども、今では老神という字を書いていますが、もとは赤城の神が合戦に負けて、逃げてここまで来られた故に、追神ということになったともいいました。「上野志。群馬県利根郡東村老神」

 それからまた赤城明神の氏子だけは、決して日光にはまいらなかったそうであります。赤城の人が登って来ると必ず山が荒れると、日光ではいっておりました。東京でも牛込うしごめはもと上州の人の開いた土地で、そこには赤城山の神を祀った古くからの赤城神社がありました。この牛込には徳川氏の武士が多くその近くに住んで、赤城様の氏子になっていましたが、この人たちは日光に詣ることが出来なかったそうであります。もし何か役目があって、ぜひ行かなければならぬ時には、その前に氏神に理由を告げて、その間だけは氏子を離れ、築土つくどの八幡だの市谷いちがやの八幡だのの、仮の氏子になってから出かけたということであります。「十方庵遊歴雑記」

 奥州津軽の岩木山の神様は、丹後国の人が非常にお嫌いだということで、知らずに来た場合でも必ず災がありました。昔は海が荒れたり悪い陽気の続く時には、もしや丹後の者が入り込んではいないかと、宿屋や港の船を片端からしらべたそうであります。これはこの山の神がまだ人間の美しいお姫様であった頃に、丹後の由良ゆらという所でひどいめにあったことがあったから、そのお怒が深いのだといっておりました。「東遊雑記その他」

 信州松本の深志ふかしの天神様の氏子たちは、島内村の人と縁組みをすることを避けました。それは天神は菅原道真であり、島内村の氏神たけの宮は、その競争者の藤原時平ときひらを祀っているからだということで、嫁婿ばかりでなく、奉公に来た者でも、この村の者は永らくいることが出来なかったそうであります。「郷土研究二編。長野県東筑摩郡島内村」

 時平を神に祀ったというお社は、また下野しもつけ古江ふるえ村にもありました。これも隣りの黒袴くろばかまという村に、菅公かんこうを祀った鎮守の社があって、前からその村と仲が悪かったゆえに、こういう想像をしたのではないかと思います。この二つの村では、男女の縁を結ぶと、必ず末がよくないといっていたのみならず。古江の方では庭に梅の木を植えず、また襖屏風ふすまびょうぶの絵に梅を描かせず、衣服の紋様にも染めなかったということであります。「安蘇史。栃木県安蘇郡犬伏町黒袴」

 下総の酒々井しすい大和田というあたりでも、よほど広い区域にわたって、もとは一箇所も天満宮を祀っていませんでした。その理由は鎮守の社が藤原時平で、天神の敵であるからだといいましたが、どうして時平大臣を祀るようになったかは、まだ説明せられてはおりません。「津村氏譚海。千葉県印旛郡酒々井町」

 丹波の黒岡という村は、もと時平公の領分であって、そこには時平屋敷しへいやしきがあり、その子孫の者が住んでいたことがあるといっていました。それはたしかな話でもなかったようですが、この村でも天神を祀ることが出来ず、たまたま画像えぞうをもって来る者があると、必ず旋風つむじかぜが起ってその画像を空に巻き上げ、どこへか行ってしまうといい伝えておりました。「広益俗説弁遺篇。兵庫県多紀郡城北村」

 何か昔から、天神様を祀ることの出来ないわけがあって、それがもう不明になっているのであります。それだから村に社があれば藤原時平のように、生前菅原道真と仲が悪かった人の、社であるように想像したものかと思います。鳥取市の近くにも天神を祀らぬ村がありましたが、そこには一つの古塚があって、それを時平公の墓だといっておりました。こんな所に墓があるはずはないから、やはり後になって誰かが考え出したのであります。「遠碧軒記。鳥取県岩美郡」

 しかし天神と仲が善くないといった社は他にもありました。例えば京都では伏見ふしみ稲荷いなりは、北野の天神と仲が悪く、北野に参ったと同じ日に、稲荷の社に参詣してはならぬといっていたそうであります。その理由として説明せられていたのは、今聞くとおかしいような昔話でありました。昔は三十番神といって京の周囲の神々が、毎月日をきめて禁中の守護をしておられた。菅原道真の霊がらいになって、御所の近くに来てあばれた日は、ちょうど稲荷大明神が当番であって、雲に乗って現れてこれを防ぎ、十分にその威力を振わせなかった。それゆえに神に祀られて後まで、まだ北野の天神は稲荷社に対して、怒っていられるのだというのでありますが、これももちろん後の人がいい始めたことに相違ありません。「渓嵐拾葉集。載恩記等」

 あるいはまた天神様と御大師様とは、仲が悪いという話もありました。大師の縁日に雨が降れば、天神の祀りの日は天気がよい。二十一日がもし晴天ならば、二十五日は必ず雨天で、どちらかに勝ち負けがあるということを、京でも他の田舎でもよくいっております。東京では虎の門の金毘羅様こんぴらさまと、蠣殻町かきがらちょう水天宮すいてんぐう様とが競争者で、一方の縁日がお天気なら他の一方は大抵雨が降るといいますが、たといそんなはずはなくても、なんだかそういう気がするのは、多分は隣り同士の二箇所の社が、互に相手にかまわずには、ひとりで繁昌することが出来ぬように、考えられていた結果であろうと思います。
 だから昔の人は氏神といって、殊に自分の土地の神様を大切にしておりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お参りをするようになっても、信心をする神仏は土地によって定まり、どこへ行って拝んでもよいというわけには行かなかったようであります。同じ一つの神様であっても、一方では栄え他の一方では衰えることがあったのは、つまりは拝む人たちの競争であります。京都では鞍馬くらま毘沙門様びしゃもんさまへ参る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があって、もとはこれを福惜しみの毘沙門などといっておりました。せっかく鞍馬に詣って授かって来た福を、惜しんで奪い返されるといって、鞍馬参詣の人はこの堂を拝まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るようにしていたといいます。同じ福の神でも祀ってある場所がちがうと、もう両方へ詣ることは出来なかったのを見ると、仲の善くないのは神様ではなくて、やはり山と山との背競べのように、土地を愛する人たちの負け嫌いが元でありました。松尾のお社なども境内に熊野石があって、ここに熊野の神様がお降りなされたという話があり、以前はそのお祭りをしていたかと思うにもかかわらず、ここの氏子は紀州の熊野へ参ってはならぬということになっていました。それから熊野の人もけっして松尾へは参って来なかったそうで、このいましめを破ると必ずたたりがありました。これなども多分双方の信仰が似ていたために、かえって二心を憎まれることになったものであろうと思います。「都名所図会拾遺。日次記事」

 どうして神様に仲が悪いというような話があり、お参りすればたたりを受けるという者が出来たのか。それがだんだんわからなくなって、人は歴史をもってその理由を説明しようとするようになりました。例えば横山という苗字の人は、常陸の金砂山かなさやまに登ることが出来ない。それは昔佐竹氏の先祖がこの山に籠城ろうじょうしていた時に、武蔵の横山党の人たちが攻めて来て、城の主が没落することになったからだといっていますが、この時に鎌倉将軍の命をうけて、従軍した武士はたくさんありました。横山氏ばかりがいつまでもにくまれるわけはないから、これには何か他の原因があったのであります。「楓軒雑記。茨城県久慈郡金砂村」

 東京では神田かんだ明神のお祭りに、佐野氏の者が出て来ると必ずわざわいがあったといいました。神田明神では平将門たいらのまさかどの霊を祀り、佐野はその将門を攻めほろぼした俵藤太秀郷たわらとうたひでさと後裔こうえいだからというのであります。下総成田しもうさなりたの不動様は、秀郷の守り仏であったという話でありますが、東京の近くの柏木かしわぎという村の者は、けっして成田には参詣しなかったそうであります。それは柏木の氏神よろい大明神が、やはり平将門の鎧を御神体としているといういい伝えがあったからであります。「共古日録。東京府豊多摩郡淀橋町柏木」

 信州では諏訪の附近に、守屋という苗字の家がたくさんにありますが、この家の者は善光寺にお詣りしてはいけないといっておりました。強いて参詣すると災難があるなどともいいました。それはこの家が物部守屋連もののべのもりやのむらじの子孫であって、善光寺の御本尊を難波なにわ堀江に流し捨てさせた発頭人ぼっとうにんだからというのでありますが、これも恐らくは後になって想像したことで、守屋氏はもと諏訪の明神に仕えていた家であるゆえに、他の神仏を信心しなかったまでであろうと思います。「松屋筆記五十。長野県長野市」

 天神のお社と競争した隣りの村の氏神を、藤原時平を祀るといったのは妙な間違いですが、これとよく似た例はまた山々の背くらべの話にもありました。富士と仲の悪い伊豆の雲見の山の神を、磐長媛であろうという人があると、一方富士の方ではその御妹の、木花開耶媛を祀るということになりました。どちらが早くいい始めたかはわかりませんが、とにかくにこの二人の姫神は姉妹で、一方は美しく一方はみにくく、嫉みからお争いがあったように、古い歴史には書いてあるので、こういう想像が起ったのであります。伊勢と大和の国境の高見山という高い山は、吉野川の川下の方から見ると、多武峰とうのみねという山と背くらべをしているように見えますが、その多武峰には昔から、藤原鎌足ふじわらのかまたりを祀っておりますゆえに、高見山の方には蘇我入鹿そがのいるかが祀ってあるというようになりました。入鹿をこのような山の中に、祀って置くはずはないのですが、この山に登る人たちは多武峰の話をすることが出来なかったばかりでなく、鎌足のことを思い出すからといって、鎌を持って登ることさえもいましめられておりました。そのいましめを破って鎌を持って行くと、必ず怪我をするといい、または山鳴りがするといっておりました。「即事考。奈良県吉野郡高見村」

 この高見山の麓を通って、伊勢の方へ越えて行く峠路の脇に、二丈もあるかと思う大岩が一つありますが、土地の人の話では、昔この山が多武峰と喧嘩をして負けた時に、山の頭が飛んでここに落ちたのだといっております。そうして見ると蘇我入鹿を祀るよりも前から、もう山と山との争いはあったので、その争いに負けた方の山の頭が、飛んだという点も羽後うご飛島とびしま、或は常陸の石那阪の山の岩などと、同様であったのであります。どうしてこんな伝説がそこにもここにもあるのか。そのわけはまだくわしく説明することが出来ませんが、ことによると負けるには負けたけれども、それは武蔵坊弁慶が牛若丸だけに降参したようなもので、負けた方も決して平凡な山ではなかったと、考えていた人が多かった為かも知れません。ともかくも山と山との背くらべは、いつでも至って際どい勝ち負けでありました。それだから人は二等になった山をも軽蔑けいべつしなかったのであります。日向ひゅうがの飯野郷というところでは、高さ五ひろほどの岩が野原の真中にあって、それを立石たていし権現と名づけて拝んでおりました。そこから遠くに見える狗留孫山くるそざんの絶頂に、卒都婆そとば石、観音石という二つの大岩が並んでいて、昔はその高さが二つ全く同じであったのが、後に観音石の頸が折れて、神力をもって飛んでこの野に来て立った。それ故に今では低くなりましたけれども、人はかえってこの観音石の頭を拝んでいるのであります。「三国名所図会。宮崎県西諸県郡飯野村原田」

 肥後の山鹿やまがでは下宮の彦嶽ひこだけ権現の山と、蒲生がもうの不動岩とは兄弟であったといっております。権現は継子ままこで母が大豆ばかり食べさせ、不動は実子だから小豆を食べさせていました。後にこの兄弟の山が綱を首に掛けて首引きをした時に、権現山は大豆を食べていたので力が強く、小豆で養われた不動岩は負けてしまって、首をひき切られて久原くばらという村にその首が落ちたといって、今でもそこには首岩という岩が立っています。ゆるだけという岩はそのまん中に立っていて、首ひきの綱に引っ掛かってゆるいだから揺嶽、山に二筋のくぼんだところがあって、そこだけ草木の生えないのを、綱ですられたあとだといい、小豆ばかり食べていたという不動の首岩の近くでは、今でもそのために土の色が赤いのだというそうであります。「肥後国志等。熊本県鹿本郡三玉村」

2021年3月2日

子等を思う歌/山上憶良

睦月十九日の月 雨水/03.02 21:55 上州藤岡

昨夜です。朧月を観てたらなぜか心がおだやかに… 不思議なもんです。で、憶良のあの歌を書いとこうと、やり始めました。序と長歌、短歌をどう配置するか… 悪戦苦闘したけど、どうにか形になったとさ。あっ、横スクロール版です (^-^)

筑前守だった神亀五年七月二十一日に嘉摩郡で撰定されたようです。金井沢碑は神亀三年、長屋王の変は神亀六年…

巻第五 802803 子等を思ふ歌 序を併せたり


釋迦如来金口正説 等思衆生如羅睺羅 又説愛無過子 至極大聖尚有愛子之心 況乎世間蒼生誰不愛子乎

釈迦如来、金口こんくまさきたまはく、ひとしく衆生しゅしやうを思ふこと、羅睺羅らごらの如しとのたまへり。又説きたまはく、愛は子に過ぎたりといふこと無しとのたまへり。至極しごくの大聖すら、なほし子をうつくしぶる心あり。いはむや世間よのなか蒼生あをひとくさ、誰か子を愛しびざらめや

お釈迦さまがその尊い口で正しくお説きになったことには、「平等に衆生を思うことは、わが子羅睺羅を思うのとおなじだ」と。またお説きになったことには、「愛は子に優るものはない」と。こんな無上の大聖人でさえ、やはり子を愛する心があるのだ。ましてこの世間一般の人々で誰が子を愛さずにおられようか

長 歌
宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆
麻斯提斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽
麻奈迦比尓 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農

うりめば 子ども思ほゆ
くりめば ましてしぬはゆ
何処いづくより きたりしものぞ
眼交まなかひに もとなかかりて
安眠やすいさぬ

瓜を食べると子供のことが思われる。栗を食べると、いっそう子供が偲ばれることだ。いったい子供というものはどこから来たものであろうか。こうしていても目の前にしきりにちらついて、私に安眠させないことよ

返 歌
銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良
古尓斯迦米夜母

しろかねくがねも玉も
何せむにまされる宝
子にかめやも

銀も金も玉も、どうして優れた宝であろうか…
子に及ぶ宝があろうか

体感する万葉集【子等を思う歌/山上憶良】上野誠

2021年3月1日

タナオスミレ/2019.05.05 上州御荷鉾山

もう、2年前です。さるお方から、タナオスミレが咲いてるよ、とメールが届きました。菜の花便りを聞いた途端、集うことはまかりならん! お花畑はつぶしたよ… ふんなこんなで新生活様式とやらの古典的暮らしぶりを強制され鬱々と過ごしていました。そこに咲いてるよメール。もう立夏でしたが御荷鉾山みかぼやまなら人の群れができん、と出かけたんさ…

ヒゴスミレ 2007.04.xx 上州御荷鉾山 1枚目はタナオスミレの隣で咲いていた斑入麓菫フイリフモトスミレです。いま見てたらタナオスミレぽく見えてきちゃって… が、まぁ、花の感じと葉の切れ込み具合などから斑入麓菫でよいかなと… あと、ここにはフイリタナオスミレもいました。パチってあります。機会があればあげるけど… 斑があると思えば「斑入り」をつければそれでよし… (°-°;

この日のフォルダは曙菫アケボノスミレで始まり、小哨吶草コチャルメルソウで終わってます。だで、三波川から夜沢、御荷鉾山と走ったかと… 自然交雑の種生菫タナオスミレです。園芸のヒゴスミレじゃなくて野の肥後菫ヒゴスミレが片親です。盗み採られちゃうかもしれません。御荷鉾の何処かはふせとくだよ。去年は行かなかったけど、野でしたたかに生きているお方たちです。あの台風をやり過ごして生き延びたかもしれません。今季は逢いに行ってみるかな… (^-^)