2022年9月15日

市振 ~ 山中/9 奥の細道

奥の細道図

市振

 今日けふは親知らず・子知らず・犬戻もどり・駒返がえしなどいふ北国一ほっこくいちの難所なんじょを越こえてつかれはべれば、枕まくら引きよせて寐ねたるに、一間ひとま隔へだてて面おもてのかたに若き女の声ふたりばかりと聞こゆ。年老としおいたる男おのこの声も交まじりて物語ものがたりするを聞けば、越後えちごの国新潟にいがたといふ所ところの遊女ゆうじょなりし。伊勢いせ参宮さんぐうするとて、この関せきまで男おのこの送おくりて、あすは古郷ふるさとに返す文ふみしたため、はかなき言伝ことづてなどしやるなり。「白浪しらなみのよする汀みぎわに身みをはふらかし、海士あまのこの世をあさましう下くだりて、定さだめなき契ちぎり、日々ひびの業因ごういんいかにつたなし」と、ものいふを聞く聞く寝入ねいりて、あした旅立たびだつに、我々われわれに向むかひて、「行方ゆくえ知しらぬ旅路たびぢの憂うさ、あまり覚束おぼつかなう悲しくはべれば、見え隠がくれにも御跡おんあとを慕したひはべらん。衣ころもの上の御情おんなさけに、大慈だいじの恵めぐみを垂たれて、結縁けちえんせさせたまへ」と涙なみだを落とす。不便ふびんのことには思ひはべれども、「われわれは所々ところどころにてとどまるかた多おほし。ただ人の行ゆくにまかせて行ゆくべし。神明しんめいの加護かご、必かならず恙つつがなかるべし」といひ捨すてて出いでつつ、あはれさしばらくやまざりけらし。


  一家ひとつやに遊女ゆうじょも寝たり萩はぎと月


曽良に語かたれば、書かきとどめはべる。


越中路

 黒部くろべ四十八ヶ瀬しじゅうはちがせとかや。数知しらぬ川を渡わたりて、那古なごといふ浦うらに出いづ。担籠たごの藤浪ふじなみは、春ならずとも、初秋はつあきのあはれ訪とふべきものをと、人に尋ぬれば「これより五里磯いそ伝ひして、向むかふの山陰に入いり、蜑あまの苫葺とまぶきかすかなれば、蘆あしの一夜ひとよの宿貸かすものあるまじ」と、いひをどされて、加賀かがの国に入いる。

  早稲わせの香かや分わけ入いる右は有磯海ありそうみ


金沢

 卯うの花山・倶利伽羅くりからが谷を越こえて、金沢かなざわは七月中なかの五日なり。ここに大坂おおざかより通ふ商人あきんど何処かしょといふ者あり。それが旅宿をともにす。
 一笑いつせうといふ者は、この道に好すける名のほのぼの聞えて、世に知る人もはべりしに、去年こぞの冬早世そうせいしたりとて、その兄追善ついぜんを催もよおすに、


  塚つかも動けわが泣く声は秋の風


   ある草庵そうあんにいざなはれて


  秋涼し手ごとにむけや瓜うり茄子なすび


   途中吟


  あかあかと日はつれなくも秋の風


   小松こまつといふ所にて


  しをらしき名や小松吹く萩はぎ薄すゝき


多太神社

 この所多太太田の神社に詣もうづ。実盛さねもりが甲かぶと・錦にしきの切れあり。往昔そのむかし源氏に属せし時、義朝よしとも公より賜たまはらせたまふとかや。げにも平士ひらさぶらいのものにあらず。目庇まびさしより吹返ふきがへしまで、菊唐草きくからくさの彫ほりもの金こがねをちりばめ、龍頭たつがしらに鍬形くわがた打つたり。実盛討死うちじにの後のち、木曽義仲きそよしなか願状がんじょうに添へて、この社やしろにこめられはべるよし、樋口ひぐちの次郎じろうが使ひせしことども、まのあたり縁記えんぎに見えたり。

 むざんやな甲かぶとの下のきりぎりす


那谷

 山中やまなかの温泉いでゆに行くほど、白根しらねが岳だけ跡に見みなして歩あゆむ。左の山際やまぎはに観音堂あり。花山くわざんの法皇、三十三所の巡礼とげさせたまひて後のち、大慈大悲の像を安置あんちしたまひて、那谷なたと名付たまふとなり。那智なち・谷汲たにぐみの二字を分わかちはべりしとぞ。奇石きせきさまざまに、古松こしょう植ゑならべて、萱葺かやぶきの小堂しょうどう、岩の上に造りかけて、殊勝の土地なり。

  石山いしやまの石より白し秋の風


山中

 温泉いでゆに浴す。その功有間ありまに次ぐといふ。

  山中やまなかや菊はたをらぬ湯の匂にほひ

 あるじとするものは久米之助くめのすけとて、いまだ小童せうどうなり。かれが父、誹諧を好きて、洛らくの貞室ていしつ若輩の昔、ここに来たりしころ、風雅に辱はづかしめられて、洛に帰りて貞徳ていとくの門人となつて世に知らる。功名の後のち、この一村いっそん判詞はんしの料を請うけずといふ。今更いまさら昔むかし語がたりとはなりぬ。


山中 那谷 多太神社 金沢 越中路 市振

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