2021年2月24日

金井沢碑/古典としての上野三碑

2019.11.03 三碑おでん 金井沢碑 季節頼みの「新生活様式」とやらを続けていてパチリもままならんばい。ふんなで文化の日(2019.11.03)にパチってきた金井沢碑をひっぱりだして暇つぶしに読んでみたと (^-^)

ウィキペディア「金井沢碑」に、江戸時代の中ごろに出土しかつては小川のほとりで付近の農家の洗濯板として使用されていた、とあります。だで磨滅しちゃってて読めん文字もあるんさ。あと、家刀自を中心に系図っぽいのも書いといたと

上野國羣馬郡下賛郷髙田里
三家子⬜為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又兒加
那刀自孫物部君午足次刀自次乙
刀自合六口又知識所結人三家毛人
次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月廿九日

金井沢碑 2019.11.02 上州高崎山名

三家子⬜みやけの?
├─────加那かな刀自┌物部君午足もののべのきみうまたり
他田君目頬おさだのきみめづら刀自   ├──┼ひづめ刀自
物部もののべ  └おとひづめ刀自

三家毛人みやけのえみし
三家知万呂みやけのちまろ
鍛師かぬち礒マ君いそべのきみ身麻呂みまろ

まず、熊倉浩靖『古典としての上野三碑』から、金井沢碑について述べてるところを… (°-°;

は群の正字で、群馬県紋章もこの字体である。は他に見られない文字だが、馬偏に爪なので、伝統的に「ひづめ」と読まれている。は「部」の略体で「ア」「卩」「阝」と書かれる場合もあり、遅くとも6世紀代の朝鮮半島諸国で使われ始め日本列島でも一般化した。三家は山上碑の佐野三家さののみやけに繋がる氏族名と見られる。子⬜は碑を建てた中心人物の名だが、残念なことに摩滅が激しく、文字を確定することができない。他田君、も摩滅が激しく、他の読みの可能性も指摘されている。

碑文は、碑文作者の所在地ないし戸籍と碑文作成の対象を記す第1・第2行は、碑文作成に賛同・参加した者とその関係を記す。第3~第6行は碑文作成の目的と碑文としたことの確認。碑文作成の年月日を記す第7~第9行の3部構成となっており、『日本書紀』や『万葉集』などの古訓を参照すれば、おおむね以下のように読むことができる。

【第1・第2行】上野國こうづけのくに羣馬郡くるまのこほり下賛郷しもさののさと髙田里たかだのこざと三家子⬜みやけの?は、七世しちせい父母ふぼ、現在の父母のために、
【第3~第6行】現在はべ家刀自いへとじ(=家を取り仕切る主婦、正妻/やか刀自)、他田君おさだのきみ目頬めづら刀自、又、加那かな刀自、孫の物部君もののべのきみ午足うまたり、次の(孫の)ひづめ刀自、次(孫の)おとひづめ刀自とのあはせて六口むたり、又、知識ちしき所結人むすばるるひと三家毛人みやけのえみし、次の(三家)知万呂ちまろ鍛師かぬち礒マ君いそべのきみ身麻呂みまろの合せて三口みたり
【第7~第9行】如是かく知識を結而むすびて天地あめつち誓願こいちか仕奉つかへまつ石文いしぶみ神亀じんき三年(=726年)丙寅ひのえとら二月廿九日

要は、三家子⬜が、ご先祖さまのために、嫡系親族6名を核に、傍系親族など3名の協力を得て「知識を結んだ」石文ということだが、「知識を結ぶ」という表現に、先祖供養を超えての決意・行動が伺える。「知識を結ぶ」という表現は金井沢碑が初出だが、もともとは仏教信者を意味する「知識」という表現から進んで、人々を組織して、ことに当たる意味となっている。金井沢碑では鮮明ではないが、金井沢碑建立の翌年、和泉の地で行基菩薩が2000名もの人々を知識に合わせて土塔を築き弱者救済や公共事業に当っていることは、金井沢碑の思想性を推測させる。

碑文の「神亀じんき三年丙寅ひのえとら二月廿九29日」はユリウス暦726年4月6日。ウィキペディア「神亀」を… (^-^)
神亀(じんき、しんき、旧字体:神󠄀龜)は、日本の元号の一つ。養老の後、天平の前。724年から729年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇
  神亀元年(724年)蝦夷反乱する。藤原宇合を持節大将軍に任ずる。陸奥国に多賀城を設置
  神亀4年 (727年)渤海使が初めて来日
  神亀6年 (729年)2月12日:長屋王が反乱の疑いにより宅に兵を囲まれ自害(長屋王の変)
                   3月:口分田を悉く収納して班田する

2021年2月22日

雲巌寺 〜 信夫の里/3 奥の細道

奥の細道図

雲巖寺

 当国雲巌寺うんがんじおく仏頂和尚ぶつちゃうをしやう山居さんきょの跡あり。
竪横たてよこの五尺にたらぬ草のいお
むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書き付けはべり」と、いつぞや聞こえたまふ。その跡見んと、雲岸寺に杖をけば、人々すすんでともにいざなひ、若き人おほく道のほどうちさわぎて、おぼえずかの麓に到る。山は奥ある景色にて、谷道はるかに、松・杉黒く、苔したゞりて、卯月うづきてん今なほ寒し。十景くる所、橋を渡つて山門に入る。

 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後ろの山によぢ登れば、石上せきしやう小庵せうあん岩窟がんくつむすけたり。妙禅師めうぜんじ死関しくわん法雲ほううん法師の石室せきしつを見るがごとし。

  木啄きつつきいほやぶらず夏木立なつこだち

と、とりあへぬ一句柱に残しはべりし。


殺生石・遊行柳

 これより殺生石せつしやうせきに行く。館代くわんだいより馬にて送らる。この口付くちづきのをのこ短冊たんじゃく得させよ」と乞ふ。やさしきことを望みはべるものかなと、

  野を横に馬けよほとゝぎす

 殺生石せつしやうせき温泉いでゆづる山陰やまかげにあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂まさごの色の見えぬほどかさなり死す。

 また、清水しみづながるゝの柳は、蘆野あしのの里にありて、田のくろに残る。この所の郡守戸部こほうなにがしの「この柳見せばや」など、をりをりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日けふこの柳のかげにこそ立ち寄りはべりつれ。

  田一枚植ゑて立ち去る柳かな


白河の関

 心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて旅心たびごころ定まりぬ。「いかで都へ」と便たより求もとめしもことわりなり。なかにもこの関は三関さんくわんいつにして、風騒ふうそうの人、心をとどむ。秋風あきかぜを耳に残し、紅葉もみぢおもかげにして、青葉のこずゑなおあはれなり。の花の白妙しろたへに、むばらの花の咲きひて、雪にもゆる心地ここちぞする。古人こじん冠をただし、衣装をあらためしことなど、清輔きよすけの筆にもとどめ置かれしとぞ。

  卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曾良


須賀川

 とかくして越え行ゆくままに、阿武隈あふくま川を渡る。左に会津根あひづね高く、右に岩城いわき相馬さうま三春みはるしゃう常陸ひたち下野しもつけの地をさかひて山つらなる。かげ沼といふ所を行くに、今日けふは空曇りて物影うつらず。

 須賀川すかがはの駅に等窮とうきゅうといふものを尋ねて、四、五日とどめらる。まづ「白河の関いかにえつるにや」とふ。「長途ちょうどのくるしみ、身心しんじんつかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧かいきゅうはらわたを断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。

  風流ふうりゅうの初めや奥の田植歌たうゑうた

むげにこえんもさすがに」と語れば、わき第三だいさんとつづけて、三巻みまきとなしぬ。

 この宿しゅくのかたはらに、大きなるくり木陰こかげを頼みて、世をいとふ僧あり。とちひろふ太山みやまもかくやとしづかに覚えられて、ものに書き付けはべる。そのことば

栗といふ文字もんじは、西の木と書きて、
西方浄土に便りありと、行基ぎょうき菩薩
の一生つゑにもはしらにもこの木を用ゐ
たまふとかや。

  世の人の見付けぬ花や軒の栗


浅香山・信夫の里

 等窮が宅をでて五里ばかり、檜皮ひはだ宿しゅくを離れて浅香山あさかやまあり。道より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころもややちこうなれば、「いづれの草を花がつみとはいふぞ」と、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね、人にひ、「かつみかつみ」と尋ねありきて、日は山のにかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚くろづかの岩屋一見し、福島に泊まる。

 くれば、しのぶもぢりの石を尋ねて、信夫しのぶさとに行く。はる山陰やまかげの小里に、石なかば土にうづもれてあり。里のわらべの来たりて教へける。「昔はこの山の上にはべりしを、往来ゆききの人の麦草むぎくさらして、この石をこころみはべるをにくみて、この谷にき落とせば、石のおもてしたざまにしたり」といふ。さもあるべきことにや。

  早苗さなへとる手もとやむかししのぶ


信夫の里・浅香山 須賀川 白河の関 遊行柳・殺生石 雲巖寺

2021年2月19日

1418 石ばしる垂水の上のさ蕨の…

「雨水」降る雪は雨へと変わり、氷は溶け水となり、田の近くまで流れて来るようになります。今年は人日の節句の二月十八日でした。二十四節気は期間の意もあります。今日付けで書いときます…

巻第八 春の雑歌 1418 志貴皇子のよろこびの御歌

いはばしる垂水たるみの上のさわらび
え出づる春になりにけるかも

石激いはばしる 垂見之上乃たるみのうへの 左和良妣乃さわらびの 毛要出春尓もえいづるはるに 成来鴨なりにけるかも

岩の上をほとばしり流れる滝のほとりのサワラビが芽を出す春になったことだなあ…

2021年2月17日

山の娘たちとラジオ/桐生通信

夏に仕事ができなくなるのが例であったが、今年は人のすすめで大半伊香保ですごしたせいで仕事ができた。

一般に山中の温泉は山また山にかこまれた谷川沿いにあるものだが、伊香保は山の斜面にあって前面は空間のひろがりだから、はるばる空を渡って流れこむ風がさわやかだ。その代り町全体が石段の斜面だからデブの私には町の散歩が苦手だ。車で榛名湖へ行って歩くのが仕事のあとのたのしみであった。かん木ばかりのせいか、榛名は山の道も湖もきわだって明るいのが特色だ。

仕事のあいまに家から生後一年の子供をよぶ。子供は温泉で遊ぶのが好きだ。ある日宿の水差しのフタをオモチャに遊んでいてこわしたので女中にわびると、女中が言下に「ハア、先日水差しの下の方をこわしたお客さまがありましてね、ちょうどよろしゅうございます」と言った。あまりのことにメンくらったが、窓から吹きこむ山の冷気にもましてそう快でもあった。

こういう海からはなれた温泉地や私の住む桐生などでも今年の特色はマグロのややマシなのがフンダンにあることだ。去年など桐生ではお祭の時でもなければ本マグロが見られなかった。今年は常に本マグロがある。田舎がマグロを食う年らしい。私もガイガー計数管を信用して大いに食っているのである。伊香保では一晩だけだったが、すてきなトロにめぐりあってお代りした。

桐生で生きている魚がたべられるのはウナギのほかには夏のアユだけだ。したがって夏の来客へのゴチソウはもっぱらアユだ。去年から桐生川にヤナができたので、ヤナから直接買うことにしたが、焼くとサンマのようにアブラが強くてモウモウと黒煙がたつ。食ってみるとほとんどアユの香がない。へんなアユだが、仕方がないので、友人には「桐生のサンマアユというやつでね。日本一まずいところが値打なんだ。モウモウとケムがでてアユの香のしないのが珍しい」といってすすめた。

友人たちも食ってみて「なるほど珍しいアユだ」とおもしろがってくれた。私は考えたのである。桐生川の川底の石にはこのあたりの子供たちがチョロとよんでいる虫が無数についている。ゴカイを小さくして透明にしたような虫だ。ここのアユはそれを食ってるせいでサンマになるんじゃないかと思ったのである。伊東のアユが温泉旅館のカスで育つせいかエサをつけないと釣れないようなものだ。

ところが先日漁業組合員の魚屋がきて、
「桐生川のアユは日本一ですよ。これがそうですから食ってみて下さい」
「食わなくともわかってるよ。モウモウとケムがでてサンマの味がするんだろう」
「いえ、あれはね、去年はヤナがはじめての仕掛けですからちょっとの出水でしょっちゅうこわれてアユがとれなかったんです。仕方なしに前橋から養殖アユをとりよせてごまかしてたんで。サナギで育ったアユだからケムがでるのは当り前でさア」

正体がわかってみるとつまらない。チョロをくって日本一まずいアユという方がゴアイキョウのような気がした。

お医者のYさんが女房にすすめた。女中はこの土地の娘にかぎるからとサラサラとソラで三つの中学校の所を書いて学校へ依頼状をだしなさいとすすめてくれたのである。ちょうど卒業期に当っていたのが幸運で、二つの中学からそれぞれ一名の新卒業生を世話してくれて、母親と先生がつきそってつれてきてくれたのである。先生がくりかえしいうには、「本当に何も知らないのですから、それだけはカクゴして下さい」見るからに小さい少女たちであった。こんな小さい子供に何かやらせてよいのかと心配になったほどだ。

私もその村々は一度バスで通ったので知っていた。桐生からバスで一時間半から二時間ぐらい渡良瀬川をさかのぼったところだ。人は飛騨を山奥の国というが、飛騨だって車窓から見る山々には段々畑が見える。渡良瀬山峡の村々には完全に段々畑すら見ることができないので、この土地の人々は昔は何をたべていたろうと不思議に思った村々であった。このあたりの女中が一番長くいつくというのはさもあろうと私も思った。

電話のかけ方も知らないし、ガスのつけ方も知らない。電話のベルがなると静かに戸をあけて、一礼して「ただいま電話が鳴っております」と報告する。報告しなくたってベルの音はきこえるよ。ゆうゆうたる物腰、雅致があってよかったが、不便でもあった。山の中にも電灯だけはあるから、ガスも電灯なみにセンをひねるだけでよいと心得たのは当然で、殺されかけたこともあったが、これくらい何も知らずに働きにきてくれる子は、かえっていじらしく、かわいいものだ。わが家にいるうちに一人前のオヨメになれるだけのことをしてやりたいという責任を感じるものである。

この子たちが都会の子供なみに知っていたのは流行歌である。ラジオのせいだ。どんな歌でも、むしろ都会の子以上に知っている。ラジオのほかに何もないせいだろう。先日も冗談音楽の主題歌をうたっているのをふと聞いたが、なるほどワンマン政府がラジオを気に病むのは自然だなと思ったのである。

今日は安吾忌です。「山の娘たちとラジオ/桐生通信」坂口安吾。あっ、青空文庫ファイルから… (^-^)
初出:「読売新聞 第二七七五五号~第二八〇二五号」1954(昭和29)年3月11日~12月6日

2021年2月15日

日光 ~ 黒羽/2 奥の細道

奥の細道図

日光

 卅日みそか、日光山のふもとに泊まる。あるじのいひけるやう、「わが名を仏五左衛門ほとけござえもんといふ。よろづ正直を旨とするゆゑに、人かくは申しはべるまま、一夜いちやの草のまくらもうちけて休みたまへ」といふ。いかなる仏の濁世塵土ぢょくせぢんど示現じげんして、かかる桑門そうもん乞食順礼こつじきじゅんれいごときの人を助けたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別にして、正直偏固へんこものなり。剛毅木訥ごうきぼくとつの仁に近きたぐひ、気禀きひん清質せいしつもっとも尊ぶべし。

 卯月うづき朔日ついたち御山おやま詣拝けいはいす。往昔そのむかし、この御山を「二荒山ふたらさん」と書きしを、空海大師開基かいきの時、「日光」とあらためたまふ。千歳未来せんざいみらいさとりたまふにや、今この御光みひかり一天にかかやきて、恩沢八荒おんたくはつくわうにあふれ、四民安堵しみんあんどすみか穏やかなり。なほはばかり多くて、筆をさし置きぬ。

  あらたふと青葉あおば若葉わかばの日の光

 黒髪山くろかみやまは、かすみかゝりて、雪いまだ白し。

  てて黒髪山に更衣ころもがへ     曾良そら

 曾良は河合かはひ氏にして、惣五郎そうごろうといへり。芭蕉の下葉したばに軒をならべて、薪水しんすいの労をたすく。このたび、松島・象潟きさがたながめともにせんことをよろこび、かつは羈旅きりょの難をいたはらんと、旅立つあかつき、髪を剃りて、墨染すみぞめにさまをへ、惣五を改めて宗悟そうごとす。よって黒髪山の句あり。「衣更ころもがへ」の二字、ちからありて聞こゆ。

 廿余丁にじゅうよちょう山を登つて、滝あり。岩洞がんとういただきより飛流して百尺はくせき、千岩の碧潭へきたんに落ちたり。岩窟がんくつに身をひそめ入りて滝の裏より見れば、裏見うらみの滝と申し伝えはべるなり。

  しばらくは滝にもるやはじ


那須野

 那須なす黒羽くろばねといふ所にる人あれば、これより野越のごえにかゝりて、直道すぐみちかんとす。はるかに一村いっそんを見かけてくに、雨降り日るる。農夫の家に一夜いちやりて、明くればまた野中のなかく。そこに野飼のがひの馬あり。草刈るをのこなげれば、野夫やぷといへどもさすがになさけらぬにはあらず。「いかゞすべきや。されどもこの野は東西縦横じゅうわうかれて、うゐうひしき旅人の道みたがえん、あやしうはべれば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」と、しはべりぬ。ちひさき者ふたり、馬の跡したひて走る。ひとりは小姫こひめにて、名を「かさね」といふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、

  かさねとは八重撫子やえなでしこの名なるべし 曾良

やがて人里にいたれば、あたひくらつぼに結び付けて馬を返しぬ。


黒羽

 黒羽くろばね館代くわんだい浄坊寺じょうぼうじなにがしかたにおとづる。思ひがけぬあるじの喜び、日夜語り続けて、その弟桃翠たうすいなどいふが、朝夕ちょうせきつととぶらひ、みずからの家にも伴ひて、親族のかたにもまねかれ、日をふるままに、一日ひとひ郊外に逍遙せうえうして、犬追物いぬおふものの跡を一見いっけんし、那須なす篠原しのはらけて、玉藻たまもまへの古墳をふ。それより八幡宮はちまんぐうまうづ。与一よいち宗高むねたか扇のまとし時、「べつしてはわが国の氏神正八幡しやうはちまん」とちかひしも、この神社にてはべると聞けば、感應かんのうことにしきりにおぼえらる。暮るれば桃翠宅に帰る。

 修験しゅげん光明寺くわうみやじといふあり。そこにまねかれて行者堂ぎょうじゃだうを拝す。

  夏山に足駄あしだを拝む首途かどでかな


2021年2月13日

4516 新しき年の始めの初春の…

巻第二十 4516 天平宝字三年春正月一日
因幡国庁にしてあへを国郡の司等に賜う宴の歌

あらたしき年のはじめ初春はつはるの今日降る雪の
いや吉事よごと

右の一首はかみ大伴宿禰家持作れり

あらたしき 年乃始乃としのはじめの 波都波流能はつはるの
家布敷流由伎能けふふるゆきの 伊夜之家餘其騰いやしけよごと

この日は元旦と立春が重なる歳旦立春だったとか
それに豊年の瑞兆の雪も降ってたようです
めでたしめでたし… 万葉集はこの歌で終わります

陰暦だと正月二日、ちょちょっと出て、花梅や白花たんぽぽ等を撮りました。で、「新しき年の始めの初春の…」とやり始めたらグラリです。福島県沖M6.7とか。けっこう揺れてびびっちゃいました

白花たんぽぽ 立春/02.13 上州吉井

2021年2月12日

発端 ~ 室の八島/1 奥の細道

蕪村「奥の細道図上巻」発端、旅立ち、草加、室の八島

発端

 月日つきひ百代はくたい過客くわかくにして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯しやうがいを浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。 も、いづれの年よりか、片雲へんうんの風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、海浜かいひんにさすらへて、去年こぞの秋、江上かうしやう破屋はをくに蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てるかすみの空に、白河の関えんと、そぞろがみのものにつきて心をくるはせ、道祖神どうそじんまねきにあひて、取るもの手につかず、股引ももひきの破れをつづり、かさ付けかへて、三里にきうすうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風さんぷう別墅べっしょうつるに、

  草の戸も住み替はるひなの家

表八句おもてはちくあんの柱にけ置く。


旅立ち

 弥生やよひすえの七日、あけぼのの空朧々ろうろうとして、月は有明ありあけにて光おさまれるものから、富士不二の嶺かすかに見えて、上野うえの谷中やなかの花のこずゑ、またいつかはと心ぼそし。むつまじき限りはよひよりつどひて、舟に乗りて送る。千住せんぢゆといふ所にて船をがれば、前途せんど三千里の思い胸にふさがりて、まぼろしちまた離別りべつなみだをそゝぐ。

  行く春や鳥うをの目はなみだ

これを矢立やたての初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中みちなかに立ちならびて、後影うしろかげの見ゆるまではと見送みおくるなるべし。


草加

 ことし、元禄二年げんろくふたとせにや、奥羽長途ちょうど行脚あんぎゃただかりそめに思ひ立ちて、呉天ごてん白髪はくはつうらみをかさぬといへども、耳にれていまだ目に見ぬさかひ、もし生て帰らばと、定めなき頼みのすえをかけ、その日やうやう草加そうかといふ宿しゅくにたどり着きにけり。痩骨そうこつの肩にかゝれる物、まづくるしむ。ただ身すがらにとはべるを、紙子かみこ一衣いちえは夜のふせぎ、浴衣ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたきはなむけなどしたるは、さすがに打捨うちすてがたくて、路頭ろとうわずらひとなれるこそわりなけれ。


室の八島

 むろ八島やしまけいす。同行どうぎやう曾良そらがいはく、「この神は花咲耶姫はなさくやひめの神ともうして、富士一躰いったいなり。無戸室うつむろりて焼きたまふ、ちかひの御中みなかに、火々出見ほほでみみこと生まれたまひしより、むろ八島やしままうす。またけぶりならはしはべるもこのいはれなり。はた、このしろといふうをを禁ず」。 縁記えんぎの旨、世に伝ふこともはべりし。


室の八島 草加 旅立ち 発端

2021年2月9日

山上碑/古典としての上野三碑

辛己歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此
新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児
長利僧母為記定文也 放光寺僧

2012.07.16 山上碑

辛己歳かのとみのとし集月じゅうがつ三日しる
佐野三家さののみやけ定賜さだめたまはる健守命たけもりのみことの孫、黒賣刀自くろめとじこれ
新川臣にっかはのおみの児、斯多々弥足尼しただみのすくねの孫、大児臣おおごのおみめとむ児
長利僧ながとしのほうし、母の為に記し定むる文也ふみなり 放光寺ほうこうじの僧

山上碑と山上古墳の解説板 山上古墳 山上古墳と覆屋

熊倉浩靖 著「古典としての上野三碑」から… 読んでたら心臓がバクバクばい。以下、引用です (^-^)

「母為に凝縮した山上碑の心情…」辛巳歳を681年と見る見方に異論はなく、山上碑は完全な形で現存する日本最古の碑である。頭から語順のままに読めること、固有名詞の表現に使われている漢字の多くが訓読みの後に組み合わされていることなどから、明らかに日本語で書かれた碑である。したがって、日本最古の日本語の碑である。…漢字を用いて日本語を日本語として表現する木簡・仏像銘なども山上碑とほほ同時代であることを考えれば、日本語誕生を象徴する碑文である。

日本語誕生とは万葉仮名のことかも…「日本語表現定着の象徴的存在としての山上碑」に具体例があります。中から辛巳かのとみ歳の前年(庚辰かのえたつ年 680年)に作った柿本人麻呂の歌を載せときます (°-°;
万葉集 10/2033 此歌一首庚辰年作之 / 右柿本朝臣人麻呂之歌集出
天漢 安川原 定而 神競者磨待無
天の川の川原にさだまりて 神しきほへば麻呂待た無くに
◎「神競者磨待無」定訓なし by 桜井満。神シ競ヘバトキ待タナクニ、ココロ競ヘバトキ待タナクニ、神シ競ヘバマロモ待タナク、などと訓まれているようです (´┬`)

 

立春の2月5日は「春の味覚 ウルイ」をツイート… が、咲いた大葉擬宝珠が見つからず、フォトから落として花をあげたと。いっぱいあるギボシ系が探せないとは困ったこまった。で、画像倉庫を覗いてたら山上碑がありました。2012.07.16 と、もう、十年前ばい。この日は、多胡碑から撮り始め、山上碑、そして金井沢碑と上野三碑を制覇。て、撮っただけだけどね (´┬`)
あっ、あと、PDF「古典としての上野三碑」が手に入りました。これから山上碑あたりを抜き書きします。それとリンクも貼ってあります。タイトルをタップすると、アカウント選択がポップアップ。たら、「OK」をタップです。開きましたか… (^-^)

PDF 古典としての上野三碑 2017.03 熊倉浩靖、タップ → ◎kenunokaze →「ok」 σ(°┰~ )