2021年2月22日

雲巌寺 〜 信夫の里/3 奥の細道

奥の細道図

雲巖寺

 当国雲巌寺うんがんじおく仏頂和尚ぶつちゃうをしやう山居さんきょの跡あり。
竪横たてよこの五尺にたらぬ草のいお
むすぶもくやし雨なかりせば
と、松の炭して岩に書き付けはべり」と、いつぞや聞こえたまふ。その跡見んと、雲岸寺に杖をけば、人々すすんでともにいざなひ、若き人おほく道のほどうちさわぎて、おぼえずかの麓に到る。山は奥ある景色にて、谷道はるかに、松・杉黒く、苔したゞりて、卯月うづきてん今なほ寒し。十景くる所、橋を渡つて山門に入る。

 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後ろの山によぢ登れば、石上せきしやう小庵せうあん岩窟がんくつむすけたり。妙禅師めうぜんじ死関しくわん法雲ほううん法師の石室せきしつを見るがごとし。

  木啄きつつきいほやぶらず夏木立なつこだち

と、とりあへぬ一句柱に残しはべりし。


殺生石・遊行柳

 これより殺生石せつしやうせきに行く。館代くわんだいより馬にて送らる。この口付くちづきのをのこ短冊たんじゃく得させよ」と乞ふ。やさしきことを望みはべるものかなと、

  野を横に馬けよほとゝぎす

 殺生石せつしやうせき温泉いでゆづる山陰やまかげにあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂まさごの色の見えぬほどかさなり死す。

 また、清水しみづながるゝの柳は、蘆野あしのの里にありて、田のくろに残る。この所の郡守戸部こほうなにがしの「この柳見せばや」など、をりをりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日けふこの柳のかげにこそ立ち寄りはべりつれ。

  田一枚植ゑて立ち去る柳かな


白河の関

 心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて旅心たびごころ定まりぬ。「いかで都へ」と便たより求もとめしもことわりなり。なかにもこの関は三関さんくわんいつにして、風騒ふうそうの人、心をとどむ。秋風あきかぜを耳に残し、紅葉もみぢおもかげにして、青葉のこずゑなおあはれなり。の花の白妙しろたへに、むばらの花の咲きひて、雪にもゆる心地ここちぞする。古人こじん冠をただし、衣装をあらためしことなど、清輔きよすけの筆にもとどめ置かれしとぞ。

  卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曾良


須賀川

 とかくして越え行ゆくままに、阿武隈あふくま川を渡る。左に会津根あひづね高く、右に岩城いわき相馬さうま三春みはるしゃう常陸ひたち下野しもつけの地をさかひて山つらなる。かげ沼といふ所を行くに、今日けふは空曇りて物影うつらず。

 須賀川すかがはの駅に等窮とうきゅうといふものを尋ねて、四、五日とどめらる。まづ「白河の関いかにえつるにや」とふ。「長途ちょうどのくるしみ、身心しんじんつかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧かいきゅうはらわたを断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。

  風流ふうりゅうの初めや奥の田植歌たうゑうた

むげにこえんもさすがに」と語れば、わき第三だいさんとつづけて、三巻みまきとなしぬ。

 この宿しゅくのかたはらに、大きなるくり木陰こかげを頼みて、世をいとふ僧あり。とちひろふ太山みやまもかくやとしづかに覚えられて、ものに書き付けはべる。そのことば

栗といふ文字もんじは、西の木と書きて、
西方浄土に便りありと、行基ぎょうき菩薩
の一生つゑにもはしらにもこの木を用ゐ
たまふとかや。

  世の人の見付けぬ花や軒の栗


浅香山・信夫の里

 等窮が宅をでて五里ばかり、檜皮ひはだ宿しゅくを離れて浅香山あさかやまあり。道より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころもややちこうなれば、「いづれの草を花がつみとはいふぞ」と、人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし。沼を尋ね、人にひ、「かつみかつみ」と尋ねありきて、日は山のにかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚くろづかの岩屋一見し、福島に泊まる。

 くれば、しのぶもぢりの石を尋ねて、信夫しのぶさとに行く。はる山陰やまかげの小里に、石なかば土にうづもれてあり。里のわらべの来たりて教へける。「昔はこの山の上にはべりしを、往来ゆききの人の麦草むぎくさらして、この石をこころみはべるをにくみて、この谷にき落とせば、石のおもてしたざまにしたり」といふ。さもあるべきことにや。

  早苗さなへとる手もとやむかししのぶ


信夫の里・浅香山 須賀川 白河の関 遊行柳・殺生石 雲巖寺

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