14文字です「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」どう読むか…
まず、常用の『現代語訳 対照 万葉集』桜井満から…
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣
吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
莫囂円隣之大相七兄爪謁気
わが背子がい立たせりけむ厳橿がもと
紀の温泉に幸しし時、額田王の作る歌
雑歌「巻一・九」
莫囂圓隣歌は集中第一の難訓歌で、伊丹末雄『万葉集難訓考』によると、九十ほどの説があるという。最近も、松本清張が「宮人にかこまれ遠し紀伊に行くわが背子立ちけむ厳橿が本」(文芸春秋第五十一巻第八号)と試みられたが、「紀伊」はキイではなく、キでなくてはならないので、五・七・四・八・七となり、落ちつかない。未だ従うべき説はないので、現代の主な試訓をあげて置く。なお三句以下を記さないものは「ワガセコガイタタセリケムイツカシガモト」と訓む。
畝傍の浦西詰に立つ 宮嶋弘『万葉雑記』
静まりし雷な鳴りそね 土橋利彦『海青篇』
夕月の影踏みて立つ 伊丹末雄『万葉集難訓考』
静まりし浦浪さわく 沢瀉久孝『万葉集注釈』
勾のたぶし見つつ行け吾が背子がい立たしけむいつかしが本 土屋文明『万葉集私注』
木綿取りし祝鎮むる吾が背子が射て立たすがね厳橿が本 谷繁『額田姫王』
まが環の装ひ七瀬の川にゆららに、わが背子しい立たせりけむ厳橿が本 阪口保『万葉林散策』
『万葉秀歌』斉藤茂吉
紀の国の山越えて行け
吾が背子がい立たせりけむ厳橿がもと
「巻一・九」額田王
紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之、射立為兼、五可新何本」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だと謂っていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿が本」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿は厳かな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下に嘗て私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以二倭姫命一為二御杖一貢二奉於天照大神一是以倭姫命以二天照大神ヲ一鎮二坐磯城ノ厳橿之本一とあり、古事記雄略巻に、美母呂能、伊都加斯賀母登、加斯賀母登、由由斯伎加母、加志波良袁登売、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、橿原の畝火の山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。考頭注に、「このかしは神の坐所の斎木なれば」云々。古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。
さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、古兄氐湯気だとした。考に云、「こはまづ神武天皇紀に依に、今の大和国を内つ国といひつ。さて其内つ国を、こゝに囂なき国と書たり。同紀に、雖辺土未清余妖尚梗而、中洲之地無風塵てふと同意なるにて知ぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国を差也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃と訓べし。又右の紀に、辺土と中州を対云しに依ては、此五字を外つ国のとも訓べし。然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは此哥にかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、猶上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは荷田大人のひめ哥也。さて此哥の初句と、斉明天皇紀の童謡とをば、はやき世よりよく訓人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田信名宿禰に伝へられき。其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家に問に、全く古大人の訓に均しといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功も徒に成なんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「傍国の可怜国なり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。
古義では、「三室の大相土見乍湯家吾が背子がい立たしけむ厳橿が本」と訓み、奠器円レ隣でミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登を参考とした。そして真淵説を、「紀ノ国の山を超て何処に行とすべけむや、無用説といふべし」と評したが、併しこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田久老が信濃漫録で云ったその模倣である。真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。この訓は何処か弛んでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。「吾が背子」は、或は大海人皇子(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。
0 件のコメント:
コメントを投稿