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2021年9月6日

莫囂円隣の歌/額田王

14文字です「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」どう読むか…

まず、常用の『現代語訳 対照 万葉集』桜井満から…

莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣
吾瀬子之わがせこが 射立為兼いたたせりけむ 五可新何本いつかしがもと

 

莫囂円隣之大相七兄爪謁気
わが背子せこがい立たせりけむ厳橿いつかしがもと

 

温泉いでましし時、額田王ぬかたのおおきみの作る歌

雑歌「巻一・九」

 

 莫囂圓隣歌ばくごうえんりんかは集中第一の難訓歌で、伊丹末雄『万葉集難訓考』によると、九十ほどの説があるという。最近も、松本清張が「宮人みやびとにかこまれとほし紀伊に行くわが背子立ちけむ厳橿が本」(文芸春秋第五十一巻第八号)と試みられたが、「紀伊」はキイではなく、キでなくてはならないので、五・七・四・八・七となり、落ちつかない。未だ従うべき説はないので、現代の主な試訓をあげて置く。なお三句以下を記さないものは「ワガセコガイタタセリケムイツカシガモト」と訓む。

畝傍うねびの浦西詰に立つ 宮嶋弘『万葉雑記』
静まりしかみな鳴りそね 土橋利彦『海青篇』
夕月の影踏みて立つ 伊丹末雄『万葉集難訓考』
静まりし浦浪さわく 沢瀉久孝『万葉集注釈』
まがりのたぶし見つつ行け吾が背子がい立たしけむいつかしが本 土屋文明『万葉集私注』
木綿ゆふ取りしはふり鎮むる吾が背子が射て立たすがね厳橿が本 谷繁『額田姫王』
まが環の装ひ七瀬の川にゆららに、わが背子しい立たせりけむ厳橿が本 阪口保『万葉林散策』

 

 

『万葉秀歌』斉藤茂吉

くにやまえて
背子せこがいたせりけむ厳橿いつかしがもと

「巻一・九」額田王

 紀の国の温泉に行幸(斉明)の時、額田王の詠んだ歌である。原文は、「莫囂円隣之、大相七兄爪謁気、吾瀬子之ワガセコガ射立為兼イタタセリケム五可新何本イツカシガモト」というので、上半の訓がむずかしいため、種々の訓があって一定しない。契沖が、「此歌ノ書ヤウ難儀ニテ心得ガタシ」と歎じたほどで、此儘では訓は殆ど不可能だとっていい。そこで評釈する時に、一首として味うことが出来ないから回避するのであるが、私は、下半の、「吾が背子がい立たせりけむ厳橿いつかしもと」に執着があるので、この歌を選んで仮りに真淵の訓に従って置いた。下半の訓は契沖の訓(代匠記)であるが、古義では第四句を、「い立たしけむ」と六音に訓み、それに従う学者が多い。厳橿いつかしおごそかな橿の樹で、神のいます橿の森をいったものであろう。その樹の下にかつて私の恋しいお方が立っておいでになった、という追憶であろう。或は相手に送った歌なら、「あなたが嘗てお立ちなされたとうかがいましたその橿の樹の下に居ります」という意になるだろう。この句は厳かな気持を起させるもので、単に句として抽出するなら万葉集中第一流の句の一つと謂っていい。書紀垂仁巻に、天皇以倭姫命御杖奉於天照大神是以倭姫命以天照大神ヲ坐磯城ノ厳橿之本とあり、古事記雄略巻に、美母呂能ミモロノ伊都加斯賀母登イツカシガモト加斯賀母登カシガモト由由斯伎加母ユユシキカモ加志波良袁登売カシハラヲトメ、云々とある如く、神聖なる場面と関聯し、橿原かしはら畝火うねびの山というように、橿の木がそのあたり一帯に茂っていたものと見て、そういうことを種々念中に持ってこの句を味うこととしていた。考頭注に、「このかしは神の坐所の斎木ゆきなれば」云々。古義に、「清浄なる橿といふ義なるべければ」云々の如くであるが、私は、大体を想像して味うにとどめている。

 さて、上の句の訓はいろいろあるが、皆あまりむずかしくて私の心に遠いので、差向き真淵訓に従った。真淵は、「円(圓)」を「国(國)」だとし、古兄氐湯気コエテユケだとした。考に云、「こはまづ神武天皇紀によるに、今の大和国を内つ国といひつ。さて其内つ国を、こゝにサヤギなき国と書たり。同紀に、雖辺土未清余妖尚梗而トツクニハナホサヤゲリトイヘドモ中洲之地無風塵ウチツクニハヤスラケシてふと同意なるにてしりぬ。かくてその隣とは、此度は紀伊国をさす也。然れば莫囂国隣之の五字は、紀乃久爾乃キノクニノよむべし。又右の紀に、辺土と中州をむかへいひしに依ては、此五字をつ国のとも訓べし。然れども云々の隣と書しからは、遠き国は本よりいはず、近きをいふなる中に、一国をさゝでは此哥このうたにかなはず、次下に、三輪山の事を綜麻形と書なせし事など相似たるに依ても、なほ上の訓を取るべし」とあり、なお真淵は、「こは荷田大人かだのうしのひめうた也。さて此哥の初句と、斉明天皇紀の童謡ワザウタとをば、はやき世よりよくヨム人なければとて、彼童謡をば己に、此哥をばそのいろと荷田信名宿禰に伝へられき。其後多く年経て此訓をなして、山城の稲荷山の荷田の家にとふに、全く古大人の訓にひとしといひおこせたり。然れば惜むべきを、ひめ隠しおかば、荷田大人の功もいたづらなりなんと、我友皆いへればしるしつ」という感慨を漏らしている。書紀垂仁天皇巻に、伊勢のことを、「傍国かたくに可怜国うましくになり」と云った如くに、大和に隣った国だから、紀の国を考えたのであっただろうか。

 古義では、「三室みもろ大相土見乍湯家ヤマミツツユケ吾が背子がい立たしけむ厳橿がもと」と訓み、奠器円レ隣メグラスでミモロと訓み、神祇を安置し奉る室の義とし、古事記の美母呂能伊都加斯賀母登ミモロノイツカシガモトを参考とした。そして真淵説を、「紀ノ国の山を超て何処イヅクに行とすべけむや、無用説イタヅラゴトといふべし」と評したが、しかしこの古義の言は、「紀の山をこえていづくにゆくにや」と荒木田久老ひさおい信濃漫録しなのまんろくで云ったその模倣である。真淵訓の「紀の国の山越えてゆけ」は、調子の弱いのは残念である。この訓は何処かたるんでいるから、調子の上からは古義の訓の方が緊張している。「吾が背子」は、或は大海人皇子おおあまのみこ(考・古義)で、京都に留まって居られたのかと解している。そして真淵訓に仮りに従うとすると、「紀の国の山を越えつつ行けば」の意となる。紀の国の山を越えて旅して行きますと、あなたが嘗てお立ちになったと聞いた神の森のところを、わたくしも丁度通過して、なつかしくおもうております、というぐらいの意になる。

2021年8月21日

蒲生野贈答歌/額田王/大海人

あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る 額田王

むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 皇太子

『万葉集 巻第一』天皇遊猟蒲生野時額田王作歌

20あかねさす 紫野むらさきの標野しめの

野守のもりずや きみそで

茜草指あかねさす 武良前野逝むらさきのゆき 標野行しめのゆき 野守者不見哉のもりはみずや 君之袖布流きみがそでふる

 天智天皇が近江の蒲生野がもうのに遊猟「薬猟」したもうた時(天皇七年五月五日)、皇太子(大皇弟、大海人皇子おおあまのみこ)諸王・内臣・群臣が皆従った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。額田王ははじめ大海人皇子にみあ十市皇女とおちのひめみこを生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍していた。この歌は、そういう関係にある時のものである。「あかねさす」は紫の枕詞。「紫野」は染色の原料として紫草むらさきを栽培している野。「標野」は御料地としてみだりに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。「野守」はその御料地の守部もりべ即ち番人である。

 一首の意は、お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。それが不安心でございます、というのである。

 この「野守」に就き、或は天智天皇を申し奉るといい、或は諸臣のことだといい、皇太子の御思い人だといい、種々の取沙汰があるが、其等のことは奥に潜めて、野守は野守として大体を味う方が好い。また、「野守は見ずや君が袖ふる」をば、「立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか」とうながすように解する説もある。「袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよなよとをかしげなるをいふ」(攷證)。「わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。われは見るからにゑましきにとなり」(講義)等である。併し、袖振るとは、「わが振る袖を妹見つらむか」(人麿)というのでも分かるように、ただの客観的な姿ではなく、恋愛心表出のための一つの行為と解すべきである。

 この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、甘美な媚態びたいをも感じ得るのである。「野守は見ずや」と強く云ったのは、一般的に云って居るようで、むしろ皇太子にうったえているのだと解して好い。そういう強い句であるから、その句を先きに云って、「君が袖振る」の方を後に置いた。併しその倒句は単にそれのみではなく、結句としての声調に、「袖振る」と止めた方が適切であり、また女性の語気としてもその方に直接性があるとおもうほど微妙にあらわれて居るからである。甘美な媚態云々というのには、「紫野ゆき標野ゆき」と対手あいての行動をこまかく云い現して、語を繰返しているところにもあらわれている。一首は平板に直線的でなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つようになった。先進の注釈書中、この歌に、大海人皇子に他に恋人があるのでねたましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戯れにさとすような分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美なうったえに触れたためであろう。

 「袖振る」という行為の例は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(巻二・一三二)、「おほならばかもかもむをかしこみと振りたき袖をしぬびてあるかも」(巻六・九六五)、「高山のみね行く鹿ししの友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」(巻十一・二四九三)などである。

 

 

『万葉集 巻第一』(天皇遊猟蒲生野時額田王作歌)
皇太子答御歌

21紫草むらさきの にほへるいもにくくあらば

人嬬ひとづまゆゑに あれひめやも

紫草能むらさきの 尓保敝類妹乎にほへるいもを 尓苦久有者にくくあらば 人嬬故尓ひとづまゆゑに 吾戀目八方われこひめやも

 右(二〇)の額田王の歌に対して皇太子(大海人皇子、天武天皇)の答えられた御歌である。  一首の意は、紫の色の美しくにおうように美しいいも(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋するはずはないではないか。そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。

 この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからとって」というのでなく、「人妻にって恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひせぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉にはなはだ多い。恋人を花にたとえたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。

 この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「にくくあらなくに」、「にくからなくに」の例もある。この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌にはたとい切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。