2021年5月24日

壷の碑 ~ 松島/5 奥の細道

奥の細道図

壷の碑

壷碑つぼのいしぶみ    市川村多賀城たがじやうにあり。

 つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺ばかりか。こけ穿うがちて文字かすかなり。四維しゆい国界こくかいの数里をしるす。「この城、神亀じんき元年、按察使あぜつし鎮守府ちんじゅふ将軍大野朝臣東人おおののあそんあずまうとのおくところなり。天平てんぴゃう宝字六年、参議東海東山とうせん節度使おなじく将軍恵美朝臣えみのあそん朝獦あさかり修造しゆぞう而、十二月朔日ついたち」とあり。聖武しやうむ皇帝の御時おほんときに当たれり。昔よりよみ置ける歌枕、多く語り伝ふといへども、山くづれ、川流れて、道あらたまり、石はうづもれて土に隠れ、木は老て若木わかぎに代はれば、時移り、変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここにいたりて疑ひなき千歳せんざい記念かたみ、今眼前に古人の心をけみす。行脚あんぎやの一徳、存命の悦び、羈旅きりょろうを忘れて、涙も落つるばかりなり。


末の松山・塩竈

 それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造りて末松山まつしょうざんといふ。松のあひあひみな墓原にて、はねはし枝を連ぬる契りの末も、ついにはかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竈しおがまの浦に入相いりあひの鐘を聞く。五月雨さみだれの空いささか晴れて、夕月夜ゆうづくよかすかに、まがきが島もほど近し。あま小舟おぶねれて、さかなかつ声々こえごえに「つなでかなしも」とよみけん心もられて、いとどあはれなり。その夜、目盲めくら法師の、琵琶びはらして、おく浄瑠璃じょうるりといふものをかたる。平家にもあらず、まひにもあらず、ひなびたる調子うちげて、まくらちかうかしましけれど、さすがに辺国の遺風忘れざるものから、殊勝しゆしやうにおぼえらる。

 早朝、塩竃しほがま明神みやうじんまうづ。国守再興せられて、宮柱みやばしらふとしく、彩椽さいてんきらびやかに、石のきざはし九仞きうじんに重なり、朝日あけの玉垣をかかやかす。かかる道の果て、塵土ぢんどの境まで、神霊あらたにましますこそわが国の風俗なれと、いとたうとけれ。神前に古き宝燈あり。かねびらのおもてに「文治三年和泉いづみの三郎さぶろう寄進」とあり。五百年来のおもかげ、今目の前にかびて、そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士なり。佳命かめい今にいたりてしたはずといふことなし。まことに「人よく道を勤め、義を守るべし。名もまたこれにしたがふ」といへり。日すでにに近し。船を借りて松島にわたる。そのかん二里余り、雄島をじまいそく。


松島

 そもそも、ことふりにたれど、松島は扶桑ふそう第一の好風にして、およそ洞庭どうてい西湖せいこを恥ぢず。東南より海を入れて、江のうち三里、浙江せつかううしほたゝふ。島々の数を尽くして、そばだつものは天をゆびさし、すふすものは波に匍匐はらばふ。あるは二重ふたへにかさなり、三重みへたたみて、左に分かれ右に連なる。負へるあり、いだけるあり。児孫じそん愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉しえふ汐風に吹きたはめて、屈曲おのづからめためたるがごとし。その気色けしきようぜんとして美人のかんばせよそほふ。ちはやふる神のむかし大山祗おおやまづみのなせるわざにや。造化ぞうくわの天工、いづれの人か筆をふるひ、ことばを尽くさむ

 雄島が磯は、地続きて海に成出なりいでたる島なり。雲居禅師うんごぜんじの別室の跡、坐禅石ざぜんせきなどあり。はた、松の木陰こかげに世をいとふ人も稀々まれまれ見えはべりて、落穂おちぼ松笠まつかさなどうちけふりたる草のいおりしずかに住すみなし、いかなる人とはしられずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海にうつりて、昼のながめまたあらたむ。 江上こうしょうに帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階を作りて、風雲のうち旅寝たびねするこそ、あやしきまでたえなる心地ここちはせらるれ

  松島やつるに身をれほととぎす  曽良

予は口をとぢてねむらんとしていねられず。旧庵をわかるる時、素堂そどう松島の詩あり。原安適はらあんてき、松が浦島うらしまの和歌を贈らる。袋をきてこよひの友とす。かつ、杉風さんぷう濁子じょくし発句ほっくあり。


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