2021年8月21日

蒲生野贈答歌/額田王/大海人

あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る 額田王

むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも 皇太子

『万葉集 巻第一』天皇遊猟蒲生野時額田王作歌

20あかねさす 紫野むらさきの標野しめの

野守のもりずや きみそで

茜草指あかねさす 武良前野逝むらさきのゆき 標野行しめのゆき 野守者不見哉のもりはみずや 君之袖布流きみがそでふる

 天智天皇が近江の蒲生野がもうのに遊猟「薬猟」したもうた時(天皇七年五月五日)、皇太子(大皇弟、大海人皇子おおあまのみこ)諸王・内臣・群臣が皆従った。その時、額田王が皇太子にさしあげた歌である。額田王ははじめ大海人皇子にみあ十市皇女とおちのひめみこを生んだが、後天智天皇に召されて宮中に侍していた。この歌は、そういう関係にある時のものである。「あかねさす」は紫の枕詞。「紫野」は染色の原料として紫草むらさきを栽培している野。「標野」は御料地としてみだりに人の出入を禁じた野で即ち蒲生野を指す。「野守」はその御料地の守部もりべ即ち番人である。

 一首の意は、お慕わしいあなたが紫草の群生する蒲生のこの御料地をあちこちとお歩きになって、私に御袖を振り遊ばすのを、野の番人から見られはしないでしょうか。それが不安心でございます、というのである。

 この「野守」に就き、或は天智天皇を申し奉るといい、或は諸臣のことだといい、皇太子の御思い人だといい、種々の取沙汰があるが、其等のことは奥に潜めて、野守は野守として大体を味う方が好い。また、「野守は見ずや君が袖ふる」をば、「立派なあなた(皇太子)の御姿を野守等よ見ないか」とうながすように解する説もある。「袖ふるとは、男にまれ女にまれ、立ありくにも道など行くにも、そのすがたの、なよなよとをかしげなるをいふ」(攷證)。「わが愛する皇太子がかの野をか行きかく行き袖ふりたまふ姿をば人々は見ずや。われは見るからにゑましきにとなり」(講義)等である。併し、袖振るとは、「わが振る袖を妹見つらむか」(人麿)というのでも分かるように、ただの客観的な姿ではなく、恋愛心表出のための一つの行為と解すべきである。

 この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、甘美な媚態びたいをも感じ得るのである。「野守は見ずや」と強く云ったのは、一般的に云って居るようで、むしろ皇太子にうったえているのだと解して好い。そういう強い句であるから、その句を先きに云って、「君が袖振る」の方を後に置いた。併しその倒句は単にそれのみではなく、結句としての声調に、「袖振る」と止めた方が適切であり、また女性の語気としてもその方に直接性があるとおもうほど微妙にあらわれて居るからである。甘美な媚態云々というのには、「紫野ゆき標野ゆき」と対手あいての行動をこまかく云い現して、語を繰返しているところにもあらわれている。一首は平板に直線的でなく、立体的波動的であるがために、重厚な奥深い響を持つようになった。先進の注釈書中、この歌に、大海人皇子に他に恋人があるのでねたましいと解したり(燈・美夫君志)、或は、戯れにさとすような分子があると説いたのがあるのは(考)、一首の甘美なうったえに触れたためであろう。

 「袖振る」という行為の例は、「石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか」(巻二・一三二)、「おほならばかもかもむをかしこみと振りたき袖をしぬびてあるかも」(巻六・九六五)、「高山のみね行く鹿ししの友を多み袖振らず来つ忘ると念ふな」(巻十一・二四九三)などである。

 

 

『万葉集 巻第一』(天皇遊猟蒲生野時額田王作歌)
皇太子答御歌

21紫草むらさきの にほへるいもにくくあらば

人嬬ひとづまゆゑに あれひめやも

紫草能むらさきの 尓保敝類妹乎にほへるいもを 尓苦久有者にくくあらば 人嬬故尓ひとづまゆゑに 吾戀目八方われこひめやも

 右(二〇)の額田王の歌に対して皇太子(大海人皇子、天武天皇)の答えられた御歌である。  一首の意は、紫の色の美しくにおうように美しいいも(おまえ)が、若しも憎いのなら、もはや他人の妻であるおまえに、かほどまでに恋するはずはないではないか。そういうあぶないことをするのも、おまえが可哀いからである、というのである。

 この「人妻ゆゑに」の「ゆゑに」は「人妻だからとって」というのでなく、「人妻にって恋う」と、「恋う」の原因をあらわすのである。「人妻ゆゑにわれ恋ひにけり」、「ものもひせぬ人の子ゆゑに」、「わがゆゑにいたくなわびそ」等、これらの例万葉にはなはだ多い。恋人を花にたとえたのは、「つつじ花にほえ少女、桜花さかえをとめ」(巻十三・三三〇九)等がある。

 この御歌の方が、額田王の歌に比して、直接で且つ強い。これはやがて女性と男性との感情表出の差別ということにもなるとおもうが、恋人をば、高貴で鮮麗な紫の色にたぐえたりしながら、かもこれだけの複雑な御心持を、直接に力づよく表わし得たのは驚くべきである。そしてその根本は心の集注と純粋ということに帰着するであろうか。自分はこれを万葉集中の傑作の一つに評価している。集中、「憎し」という語のあるものは、「憎くもあらめ」の例があり、「にくくあらなくに」、「にくからなくに」の例もある。この歌に、「憎」の語と、「恋」の語と二つ入っているのも顧慮してよく、毫も調和を破っていないのは、憎い(嫌い)ということと、恋うということが調和を破っていないがためである。この贈答歌はどういう形式でなされたものか不明であるが、恋愛贈答歌にはたとい切実なものでも、底に甘美なものを蔵している。ゆとりの遊びを蔵しているのは止むことを得ない。なお、巻十二(二九〇九)に、「おほろかに吾し思はば人妻にありちふ妹に恋ひつつあらめや」という歌があって類似の歌として味うことが出来る。

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