2021年6月30日

ムクゲとアサガオ『植物一日一題』牧野富太郎

ムクゲ「槿/木槿」 夏至/06.28 上州藤岡

ムクゲとアサガオ『植物一日一題』牧野富太郎

 ムクゲすなわち木槿をアサガオと呼びはじめたのはそもそもいつ頃であって、そしてなぜまたそういったのであろうか。しかしこの名は正しいとはいえないのみならず、それは確かに間違っているのである。

 一体ムクゲの花は早朝に開き一日咲き通し、やがて晩に凋んで落ちる一日花で、朝から晩まで開き通しである。この点からみても朝顔の名は不穏当なものであるといえる。槿花一朝の栄とはいうけれど、この花は朝ばかりの栄ではなくて終日の栄である。すなわち槿花一日の栄だといわなければその花の実際とは合致しない。かくムクゲの花は前記の通り一日咲き通しで一日顔だから、これを朝顔というのはすこぶる当を得ていない。

 人によっては『万葉集』にある「朝顔は朝露負ひて咲くといへど、暮陰ゆふかげにこそ咲益さきまさりけり」の歌によって、秋の七種ななくさの歌の朝顔をムクゲだと考えたので、それでムクゲに初めてアサガオの名を負わせたのだ。それ以前からムクゲにアサガオの名があった訳ではない。つまり一つの誤認からアサガオの名が現われたのはちょうど蜃気楼のようなもんだ。

 私はここに断案を下してムクゲをアサガオというのは大間違いであると裁決する。不服なれば異議を申し立てよだ。不満があれば控訴でもせよだ。もしも私が敗北したら罰金を出すくらいの雅量はある。もしも金が足りなきゃ七ツ屋へ行き七、八おいて拵える。

 このムクゲは落葉灌木で元来日本の固有産ではないが、今はあまねく人家に花木として栽えられ、また生籬いけがきに利用せられ挿木が容易であるからまことに調法である。紀州の熊野川に沿った両岸には長い間、まるで野生になったムクゲがかの名物のプロペラ船で遡り行くとき下り行くとき見られる。人家にあるムクゲの常品は紅紫花一重咲のものだが、なおほかに純白花品、白花紅心品、紅紫八重咲品、白八重咲品等種々な変わり品があるが、こんな異品をひとところに蒐めて作りその花を賞翫しつつ槿花亭の風雅な主人となった人をまだ見たことがない。

 ムクゲは木槿の音転である。なおこれにはモクゲ、モッキ、ハチス、キハチス、キバチ、ボンテンカなどの方言がある。

 蕣の字音はシュンである。世間往々よくこの字をかの花を賞する Pharbitis Nil Choisy のアサガオだとして用いる人があるが、それはもとより間違いで、この蕣は木槿すなわちムクゲの一名であり、かの『詩経しきょう』には「顔如蕣華」とある。面白いのはムクゲの一名として朝開暮落花の漢名のあることである。今これを和名に訳せばアサザキクレオチバナである。また藩籬草ハンリソウの一名もあるが、これはムクゲがよく生籬になっているからである。

 万葉の歌に唐棣花ハネズという植物が詠みこまれてある。すなわち『万葉集』巻四の「念はじと曰ひてしものを唐棣花色の、うつろひやすきわが心かも」、同巻八の「夏まけて咲きたる唐棣花はねず久方ひさかたの、雨うち降らばうつろひなむか」、同巻十一の「山吹やまぶきのにほへる妹が唐棣花色はねずいろの、赤裳あかものすがたいめに見えつつ」、同巻十二の「唐棣花色はねずいろの移ろひ易きこころあれば、年をぞ来経きふことは絶えずて」などがこれであって、このハネズをニワザクラ(イバラ科)だという歌人もあれば、またそれはニワウメ(イバラ科)だと称える歌人もある。またそれはモンレン(モクレン科)だと異説を唱える歌人もいるが、今はまずニワウメ説が通っているようである。しかしこれをそうして取り極めねばならんなんらの確証は無論そこに何もなく、ただ空想でそういっているに過ぎない。そしてハネズなる名称はとっくに既にこの世から逸し去って今日に存していないのである。ところが或る昔の学者の一人は、それは木槿のムクゲすなわちハチス(アオイ科)だと唱えている。すなわちそれは正しいか否か分らんが、これはハネズの語をムクゲのハチスの語とが似ているので、そんな説を立てているのであろう。またハナズオウ(紫荊)だと主張する人もある。私は今このハネズの実物についてはなんら考えあたるところもないので、まずまずここにその当否を論ずることは見合わせておくよりほか途がない。しかしそのうちさらに考えてなんとかこの問題を解決してみたいとも思っている。

 ムクゲの葉は粘汁質である。私の子供の時分によくこれを小桶の中の水に揉んでその粘汁を水に出し、油屋の真似をして遊んだもんだ。

2021年6月7日

チョウセンキハギ

チョウセンキハギ 芒種/06.07 上州吉井多比良 チョウセンキハギ 芒種/06.07 上州吉井多比良 チョウセンキハギ 芒種/06.07 上州吉井多比良

昨日です。ふと、唐駒繋と共に大陸から来た朝鮮木萩かと… 食事を済ませてパチリに回り花のアップや唐駒繋といっしょのとこなどを撮ってきました。3スレッドでふぅ垢にあげました (^-^)

対馬に自生している朝鮮木萩チョウセンキハギです。野じゃなくて植物園でしか観られないお方と思い込んでいました。が、大陸にも自生していて、ひと頃よく緑化に使われていた唐駒繋トウコマツナギと共にやって来たのかもしれません。花期は梅雨ごろらしく今咲いているのも頷けます (^-^)

梅雨の頃の野なら木萩です。庭なら宮城野萩を見ています。晩夏になると野で丸葉萩、筑紫萩、山萩が咲きます。チョウセンキハギの花は丸葉萩によく似ていて、萼歯は山萩に似て尖っています。見慣れたら花だけでも判るようになるかもよ (´ー`)

2021年6月6日

イチヤクソウ/06.06 緑野山

イチヤクソウ 芒種/06.06 上州緑野山 イチヤクソウ 芒種/06.06 上州緑野山

ハマユウの語源をアップしてひと眠り。目覚めたら薄陽の気配。で、パチリに出ました。庚申山の栗畑で雄花と雌花。あと蛾をパチリ。レンズがオオミズアオと… 便利になりましたね (^-^)

東平井まで来たら真っ白な蕎麦畑。ちょっと遅くて終わりかけの花だったけどヨリとヒキをパチリ。そのまま多比良まで走って謎の萩をパシャリ。情報が少なくて、まだ未同定だけど中国産の朝鮮木萩かも… あっ、隣の唐駒繋を撮り忘れちゃった。近いうちに撮っときます (^-^)

緑野山をちょい歩きして東国紫蘇葉立浪を数ショット。ちょっと遅くて取り頃の株は無し。で、石仏狙いで谷不動尊へ移動。たらね、雪ノ下が咲いてました。ちょいパチして緑野山へ戻りました。途中で小昼顔をいくつかパチリ。らしく撮れてます。そのうちにあげるとさ (^-^)

薄陽の射し込んでいる林床を歩いて一薬草探し。結局、咲いていたのを1株と葉だけ見たのが2株。早いのか遅いのか時期がズレとります。それにしても湿気が多く汗でべとついちゃって歩くのが億劫ばい。明日は出ないつもりだけど、さてさて… (´ー`)

栗の雄花と雌花/06.06 庚申山

栗の雌花 芒種/06.06 上州藤岡 栗の雄花 芒種/06.06 上州藤岡 栗の雌花 芒種/06.06 上州藤岡

ちょっと前から見ていた栗の花を撮ってきました。雄花には独特の臭気があります。幸い栗畑の最高木が花を咲かし始めてたんでちょいズームでパチリ。雌花は葉脇につきます。丈が低く横に枝を伸ばしてる栗を見てたら雌花を持ってるお方を発見。ヨリとヒキをパチってきたと (°-°;

ハマユウの語源

昨夕です。紀伊民報 AGARA「海岸で甘い香り ハマユウが白い花」を引用リツイートしました。
で、ハマユウの語源「植物一日一題」牧野富太郎としたんだけど今朝読んだら訳分からんばい。植物一日一題『ハマユウの語源』をアップました。時間のあるときに読んでみて… (°-°;

ハマユウの語源『植物一日一題』牧野富太郎

 ハマユウはハマオモトともハマバショウともいうもので、漢名は『広東新語かんとんしんご』にある文珠蘭ブンシュランであるといわれる。宿根生の大形常緑草本でヒガンバナ科に属し、Crinum asiaticum L. var. japonicum Baker の学名を有し、我国暖国の海浜に野生している。葉は多数叢生して開出し、長広な披針形を成し、質厚く緑色で光沢がある。茎は直立して太く短かい円柱形をなし、その葉鞘ようしょうが巻き重なって偽茎となっている。八、九月頃の候葉間から緑色のていを描き高い頂に多くの花が聚って繖形さんけいをなし、花は白色で香気を放ち、狭い六花蓋片がある。六雄蕊ゆうずい一子房があってその白色花柱の先端は紅紫色を呈する。花後に円実を結び淡緑色の果皮が開裂すると大きな白い種子がこぼれ出て沙上にころがり、その種皮はコルク質で海水に浮んで彼岸に達するに適している。そしてその達するところで新しく仔苗をつくるのである。

 葉の本の茎は本当の茎ではなく、これはその筒状をした葉鞘が前述のように幾重にも巻きかさなって直立した茎の形を偽装しており、これを幾枚にも幾枚にも剥がすことが出来、それはちょうど真っ白な厚紙のようである。

万葉集 巻第四496 柿本朝臣人麻呂 相聞 紀州 羈旅
み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも
三熊野之みくまぬの浦乃濱木綿うらのはまゆふ百重成ももへなす心者雖念こころはもへど直不相鴨ただにあはぬかもという柿本人麻呂の歌がある。この歌中の浜木綿はまゆふはすなわちハマオモトである。この歌の中の百重成ももへなすの言葉はじつに千釣の値がある。浜木綿の意を解せんとする者はこれを見のがしてはならない。

 貝原益軒の『大和本草』に『仙覚抄せんがくしょう』を引いて「浜ユフハ芭蕉ニ似テチイサキ草也茎ノ幾重トモナクカサナリタル也ヘギテ見レバ白クテ紙ナドノヤウニヘダテアルナリ大臣ノ大饗ナドニハ鳥ノ別足ツヽマンレウニ三熊野浦ヨリシテノボラルヽトイヘリ」とある。また『綺語抄きごしょう』を引いて「浜ユフハ芭蕉ニ似タル草浜ニ生ル也茎ノ百重アルナリ」ともある。

 また月村斎宗碩げっそんさいそうせきの『藻塩草もしおぐさ』には「浜木綿」の条下の「うらのはまゆふ」と書いた下に

みくまのにあり此みくまのは志摩国也大臣の大饗の時はしまの国より献ずなる事旧例也是をもつて雉のあしをつゝむ也抑此はまゆふは芭蕉に似たる草のくきのかはのうすくおほくかさなれる也もゝへとよめるも同儀也又これにけさう文を書て人の方へやるに返事せねば其人わろしと也又云これにこひしき人の名をかきて枕の下にをきてぬればかならず夢みる也此みくまのは伊勢と云説もあり何にも紀州はあらず云々

とある。

 浜木綿とは浜に生じているハマオモトの茎の衣を木綿(ユフとは元来は楮すなわちコウゾの皮をもって織った布である。この時代にはまだ綿はなかったから畢竟木綿を織物の名としてその字を借用したものに過ぎないのだということを心に留めておかねばならない。ゆえにユフを木綿と書くのはじつは不穏当である)に擬して、それで浜ユフといったものだ。人によってはその花が白き幣を懸けたようなのでそういうといってるけれど、それは皮相の見で当っていない。本居宣長の『玉勝間たまがつま』十二の巻「はまゆふ」の条下に「浜木綿………浜おもとと云ふ物なるべし………七月のころ花咲くを其色白くてタリたるが木綿に似たるから浜ゆふとは云ひけるにや」と書いてあるが、「云ひにけるにや」とあってそれを断言してはいないが、花が白くて垂れた木綿に似ているから浜ユフというのだとの説は、疾に人麻呂の歌を熟知しおられるはずの本居先生にも似合わず間違っている。

 同じく本居氏の同書『玉勝間』木綿の条下に「いにしへ木綿ユフと云ひし物はカヤの木の皮にてそを布に織たりし事古へはあまねく常の事なりしを中むかしよりこなたには紙にのみ造りて布に織ることは絶たりとおぼへたりしに今の世にも阿波ノ国に太布タフといひて穀の木の皮を糸にして織れる布有り色白くいとつよし洗ひてものりをつくることなく洗ふたびごとにいよいよ白くきよらかになるとぞ」と書いて木綿が解説してある[牧野いう、土佐で太布《タフ》というのは麻《アサ》で製した布のものをそう呼んでいた]

 小笠原島にオオハマユウというものがある。その形状はハマユウすなわちハマオモトと同様でただ大形になっているだけである。この学名は Crinum gigas Nakai である。が、私は今これを Crinum asiaticum L. var. gigas(Nakai)Makino(nov. comb.)とするのがよいと信じている。