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2026年5月27日

序・春の七草『植物記』

春の七草歌

せり なずな
おぎょう はこべら ほとけのざ
すずな すずしろ これぞ七草

和歌のスタイルで書き記されたのは
室町・足利義満の時代に編纂された
梵灯庵ぼんとうあん袖下集そでしたしゅうが初出

 春の七種ななくさを書けと言う、ハイかしこまりましたとは請合うたものの時間さえあれば如何様にも書けぬ事はないが、実白状しますと頃日どう言う訳か用事輻輳ふくそう、一つ済めばぐ次の一つ、また次の一つと一向に際限がない。チットモ心を落ち付けて筆を執る暇がない。その暇のない間を工面して苦しいけれどその然諾ぜんだくの義務を果さねばならん。仕方がないから大駆足でホンノつまらぬ事を書いてその責を果す事にしました。読んで興味を感ぜぬのは当り前でその辺どうぞゴ免候らえ。七種についてのいろいろの前座講釈はこの処抜きにして短刀直入植物の事に移ろう。

セリ   ナズナ   オギョウ   ハコベラ   ホトケノザ

スズナ:カブすなわち蕪菁。スズシロ:ダイコンすなわち蘿蔔。

2026年5月26日

セリ「水斳」春の七草

セリ・春の七草『植物記』

 セリは水斳で通常芹の字を使っているが実言うと芹一字だけでは不徹底である。セリは原頭、山足などの水に生えその白いヒゲ根を泥中に下している。採って見ると白い根が多いので故に古歌にはネジログサと称えた。溝などの中をのぞくと早春から既にそのセリが一杯に繁茂している。古人はこれを望み見てセリとはりこ迫りこして生えているからそれでそういうのだといっているが、果してそれが語原であるか否かなお再考を要する様に思う。この様に実際セリは常に密集して生えているが、考えて見るとセリにはそう生える原因が存している。セリの茎が立って梢に花の咲く時分前後モウ既にその茎の下部から四方八方に匐枝を引き長く泥面を這うている。その匐枝には多くの節がある。その各節から秋以後皆株をなして葉を萌出するのでそれで溝一杯に繁茂するのである。ツマリ株が多数に出来たのである。春にこのセリを摘む時分には最早その前年の匐枝は多くは既に腐り去っているから、そこでセリが一株一株の苗となって生えている事になる

 食う為めにセリを摘む事は昔からする事であるから古歌にはまたツミマシグサともいった。また『万葉集』に「君がため山田の沢にゑぐ採むと雪消の水に裳の裾ぬれぬ」という歌がある。このエグは人によりては今日いうクログワイだとしているが、その歌の意から見ればどうもこれはセリの事であらねばならないが今日の処私はセリにエグの一名ある事を知らない。そしてかえって前記のクログワイにはエグあるいはイゴなどの方言がある。しかしこの者ではここは都合が悪るい。

 セリの葉は分裂して多くの小葉と成っている。すなわちいわゆる複葉である。柄本に葉鞘はかまがあるがこれがこの属する傘形科の特徴である。花は白くて小さく夏に咲いて傘形花穂を成し、花後に小さい実が集り熟し落ちると仔苗が生ずる。それゆえセリは種子からも生えれば匐枝からも萌出し繁殖はなはだ盛んである。

 セリの栽培した者はよく八百屋に売っているが皆葉柄がすこぶる長い。これは水田に於て密に叢生させて作る故、上へ上へと延んでこんなに長く成っているのである。しかし野に在る者はカジケテ短いけれど香はズット高い。これを田ゼリと呼んでいる。

 さて芹の字ダガこれは斳と同じである。また菫とも同じである。しかるに今この菫を二様に使い一は水斳のセリであるが、一は通常これを菫葉として別の一種に使っている。日本の学者はその一名を旱菫すなわち旱芹というもんだからセリが陸に生えた者の様に思ってこれをハタケゼリと訓じている。そして実は菫菜なるその本物を知らなかったのである。

 右の菫菜なる者は支那、満洲、朝鮮には昔から圃に作って野菜にしていた。圃に作るから旱芹である。これは西洋にもあって西洋の者は前にはオランダミツバ「一にキヨマサニンジンという。これには一つの説話があれども今は略する」といっていたが今日ではセロリ(Celery)といって西洋野菜の一つとなっている。そして学術上の名は Apium graveolens L. である。

 菫の字は前に書いた通りの芹の字と同じで、あるいはセリに使いあるいはセロリに使うべき字面であって、決してその他の植物に用うる事は出来ないものである。しかるに世人はこれをスミレに使って平然としてスマシているのは滑稽至極で、殊更に我が無学無識を広告している様なもんダ。もし世人がスミレを支那の名で書きたければよろしく菫々菜と書くべきである。そうすればまずはスミレとなるが、菫の一字もしくは菫菜の二字では絶対にスミレとは成らないのである。

2026年5月25日

ナズナ「薺」春の七草

ナズナ・春の七草『植物記』

 ナズナは薺であって植物学上では十字科に属しダイコン、カブなどと同科である。その語原は撫菜なでなの義で愛ずる意ではないかと大槻文彦先生は書いていられるが、私はこれはなずむ菜の意でその苗葉がクシャクシャと短縮し迫って叢を成している状態に基いたものではないかと想像する。

 ナズナは春の七種の中で最も著名かつ代表的の者で、秋に早く種子から生じ野外や路傍や圃地などに沢山見られる。冬の間敢て霜にも雪にもメゲズ平たく地面にへばりついてその深く羽裂せる根生葉を四方に拡げ、日当りのよい処に生えている者は暗褐色を呈しているが日蔭げの場処に在る者は緑色である。そして葉の下には白い直根があって地に入っている。葉の切れ方には二たイロあってそれぞれ株が違っている。すなわち一はその裂片が単に長橢円形であるが一は狭長でその上縁の本に方に著しい一耳片が着いている。

 右は何方どちらもナズナであって、前者をオオナズナといい後者を単にナズナと称えて区別する。けれども決して別種ではなく共に花穂も花も果実も同じである。茎は緑色で枝を分ち花は小さくて多数総状花穂に着き白色の十字花で花中に四長二短の大雄蕊を有する。花がすむと三角形の短角果実を結ぶ事は衆のよく知る所である。

 右の果実はその恰好があたかも三味線のばちに似ている所から、この草をバチグサともペンペングサとも称する。「覚えていやがれ、そんな事をすりゃあ手前てめえんとこの屋根にペンペングサを生やしてやるゾ」と勇み肌の江戸ッ子はよく文身体いれずみからだの尻を捲って啖呵を切ったもんだけれど、実は屋根の上には余りペンペングサは生えないものである。これに反してノミノツヅリ、ノゲシ、オニタビラコなどが最もよく生えるものダ。

 ナズナを食するにはでて浸しものにしてもよく、あるいは胡麻和にしてもい。また油でイタメても結構ダ。

2026年5月24日

オギョウ「御行」春の七草

オギョウ・春の七草『植物記』

 支那の名は鼠麹草でキク科に属する。オギョウは御行と書くが、これをゴギョウというのはよくない。それ故五形と書くのは非である。時には御鏡と書いてあるものもある。この草の本名はホウコグサ(発音ホーコグサ)というのダが普通にはハハコグサ(母子草)と称えて今日はこれが通称の様に成っている。しかしこれをハハコグサといい母子草と書くのははなはよろしくない。人によると母子草とはふるき苗に若葉の添うて生ずれば母子という名もことわりであるなどと唱うるは全く牽強附会の説である。元来この草の名は母と子という意味から附けられたものではない。すなわちこの間違の起りは文徳もんとく天皇御一代の歴史を書き集めた『文徳実録』の著者が一つの因縁話を仕組みホウコとハハコと音相近きを以て本来のホウコグサをモジッテ母子草としたのが始まりである。ゆえによく諸書に母子草の名は『文徳実録』からダと書いてある。もしもこの名が昔からの本来のものであれば何も特に『文徳実録』を引き合いに出す必要は少しも無いじゃないか。

 ホウコ(発音はホーコ)の名は今日でも処によっては民間で唱えている。また処によってはホーコーともホーコグサとも、またホンコともいっている。支那に蓬蒿、皤蒿、白蒿或は黄蒿などいう草があるがあるいはその名が旧く日本に伝ってホウコという名が出来たではないかと幻想して見るも興味があるが、私の考うる所ではホウコの名はモットズット古くて何かの意味をったものでは無かろうかと想像する。

この草は早く秋に種子から生じ、茎が分れて短く地上に拡がり沢山な葉を着けて座を成している。実は狭長でその質が薄い上に白くて軟かい綿毛が一面に生え、そのために葉は白く見えている。

 春から夏の初めへかけて数寸ないし一尺|ばかりの茎が立って、梢に黄色の小さい頭状花がビッシリ固まって着く。その様子がチョット麹に似ている所から、処に依ってはコウジバナの名がある。支那で鼠麹草というのも同じ意味でそれを鼠の麹に見立ったものである。また子供が烟草たばこの真似をして遊ぶのでトノサマタバコの名が呼ばれる。

 三月三日雛の節句にはその時の草餅には昔は必ずホウコグサを入れていたものダガ、今日ではこの草を用うる事はほとんど廃れ、普通にはこれに代えてヨモギを用いている。しかるにここに面白いのは千葉県上総の土気とけ辺では今日なお昔の通りホウコグサを用いる事が遺っているとの事である。

2026年5月23日

ハコベラ「繁縷」春の七草

ハコベラ・春の七草『植物記』

 ハコベラはナデシコ科のハコベである。このハコベラはこの草の昔の称えであるが今でも稀れにこの古名をそのまま呼んでいる地方もある。国に由るとアサシラゲともいわれる。支那名は繁縷であるがそれはこの草が容易によく繁茂する上にその茎の中に一条のいと、すなわち維管束がある所からこの名が生れたのである。

 秋に種子から生え冬を越して春最もよく繁茂し小さい白花が咲いて実が出来る。花弁は元来五片であるがその各片が深く二裂しているのでチョット見た所では十弁の様に見える。果実には柄がありそれが面白い事には花の済んだ後、次第次第に下に向い成熟間際になってた上を向きそのままで果皮が開裂し中から種子が飛んで出る。これは多分この草が風に吹揺れる拍子に種子を果中から振り散らすのであろう。もし果実が下を向いたまま開いて種子が落ちたのではその行きわたる範囲が狭いので、そこで上を向いて開裂し種子を成るべく広い面積地に散布させようというこの自然の工夫は確かに一顧の価がある。

 茎も葉も一様に緑色である。多数の茎は一株から叢出して四方に拡がり梢に分枝して花を着けている。茎面には一側に一条を成して細毛を生じている特徴がある。葉は卵形で対生し葉柄が無い。しかし下方の者は卵円形で葉柄がある。

 世間ではこの草を金糸雀かなりやの餌にする事は誰れでも知っているだろう。またこの草を焼いて灰と成し、塩を交えてハコベジオと称する歯磨き粉を製する。

この草はでて浸し物と成し食べられるが一種特別な風味があってすこぶる珍である。

 一種ウシハコベという者がある。形ちもズット大きくハコベよりおくれて花が咲く。花の大さも形ちも同じだが花中に五本の花柱があるので三本花柱のハコベとはこの点を観ればぐに区別がつく。このウシハコベは金糸雀には遣らない。

 普通の人はハコベもウシハコベも一緒にしてハコベと通称しているが、昔はまずそんな状態であって後世始めてこれを二種に区別したものであろう。書物にもその両者を混同して一と成したものがある。

2026年5月22日

ホトケノザ「仏座」春の七草

ホトケノザ・春の七草『植物記』

 小野蘭山時代頃よりしてそれ以後の本草学者は春の七種の中にホトケノザを皆間違えている。これらの人々のいうホトケノザ、更にそれを受継いで今も唱えつつある今日の植物学者流、教育者流のいうホトケノザは決して春の七種中のホトケノザでは無い。右のいわゆるホトケノザは唇形科に属して Lamium amplexicaule L. の学名を有しそこここに生えている普通の一雑草である。欧洲などでも同じく珍らしくもない一野草で自家受精を営む閉鎖花の出来る事で最も著名な者である。日本の者も同じく閉鎖花を生じその全株皆ことごとく閉鎖花の者が多く正花を開く者は割合にすくない。秋に種子から生じ春栄え夏は枯死に就く。従来の本草者流はこれが漢名(支那名の事)を元宝草といっているが、これは宝蓋草(一名は珍珠蓮)と称するのが本当である。この草が春の七種中のホトケノザでは無いとすると、しかればその本物は何んであるのか。すなわちそれは正品のタビラコであって今日いうキク科のコオニタビラコ(漢名は稲槎菜、学名は Lampsana apogonoides Maxim.)である。このコオニタビラコは決してこの様な名で呼ぶ必要は無く、これは単にタビラコでよいのである。現に我邦諸処で農夫等はこれをタビラコとそういっているでは無いか。このキク科のタビラコが一名カワラケナであると同時に更に昔のホトケノザである(すなわちコオニタビラコ〔植物学者流の称〕=タビラコ〔本名〕=カワラケナ〔一名〕=ホトケノザ〔古名〕)。

 この今名タビラコ古名ホトケノザは、我邦諸州の田面に普通で秋に種子から生じ早春に漸く繁茂し、春たけなわにして日光を受け競うて小なる黄色の頭状花(舌状花より成る)を開きすこぶる美観を呈する。草状はタンポポを極く小形にした様にその羽裂葉を四方に拡げ柔かくして毛なく、サモ食ってよい様な質を表わしている。ゆえに農家の子女などは往々タビラコあるいはタビラッカを採りに行くと称して田面に下り立ちそれを採り来りて食用に供する事がある。その田面に小苗を平布し円座を成した状があたかも土器かわらけを置いた様に見ゆるから、それでこれをカワラケナといったものであろうと思う(マサカ毛が無いからではあるまい、ハハハハハ)。またその苗が田面に平たく蓮華状の円座を成している状を形容してこれをホトケノザ(仏ノ座)と昔はいったものと見える。また苗の状から田平子たびらこ、すなわち田面に平たく小苗を成しているのでそこでタビラコという名が出来たといえる。もしタビラコという名が田平子なる字面通りの意であったならこのキク科のタビラコこそ最も適当な者であるが、しかし今日いう所のムラサキ科のタビラコは頗る不適当の者である。何んとなればこの草は普通に田面には生ぜず常に田の畦とか路傍とか、または藪際とかのむしろ乾いた地に生えているからである。そしてまたその葉は余り平たく地に就てはいない。しかるに世人はこのムラサキ科のいわゆるタビラコ(すなわち学名を Trigonotis peduncularis Benth. と称する)を本物と間違え、みだりにこれを春の七種の一つだと称なえスマシ込んでいる。さてそういう様に始めてようを作った人は『本草綱目啓蒙』の著者の小野蘭山である。大学者の蘭山がそういうのだから間違いは無いと尊重してそれから後の学者は翕然きゅうぜんとして今日に至るもなおその学説を本当ダと思い、この誤りを踏襲してやはりその名でその植物を呼んでいる。蘭山がイクラ偉いと言って見た所でタカガ人間ダ、神様では無い、千慮の一失も二失も確かにあるヨ。このタビラコ問題も蘭山に取っては正にその一失である。蘭山が何故にそれを間違えたか、これは恐らくは蘭山がそれを実地に試食して見なかったセイだろうと思う。もし一たび食って見たならそれは吾々と同じ様な結論に達したに違い無かろうが。ただけだし衆芳軒の書室の机の上で想像して極めたであろうから、そこでこんな間違いを千載の下にまで遺す様に成った次第ダと思われる。蘭山の様にこれをタビラコだと信ずる人はマー一たびこれを煮てヒタシモノにでもして食って見たまえ。細やかではあるが葉に沢山な毛が生えて毛の本に硬い点床(ムラサキ科の植物には普通にそれがある)があって、嚥下えんかする時それが喉を擦っていって気持ちの悪るい感じがする。そんな者をしいて好んで食わ無くてもそのお隣りに柔かくてオイシそうな本当のタビラコがウントコサとあるじゃ無いか。常識から考えたってぐ分る事ダ。学者は変にムツカシク説を立てねばならぬものと見える。私はこのムラサキ科の者を絶対にタビラコと認めぬゆえに、新にこれににせタビラコの新称を与えて置いたが、その後それにキュウリグサの名がある事を知った。これはそのなまの葉を揉めば胡瓜キュウリの香がするからである。

 また今日世人が呼ぶ唇形科のホトケノザを試に煮て食って見たまえ。ウマク無い者の代表者は正にこの草であるという事が分る。しかし強いて堪えて食えば食えない事は無かろうがマー御免蒙るべきだネ。しかるに貝原の『大和本草』に「賤民飯ニ加ヘ食フ」と書いてあるが怪しいもんダ。こんな不味い者を好んで食わなくても外に幾らも味のい野草がそこらにザラに在るでは無いか。貝原先生もこれを「正月人日じんじつ七草ノ一ナリ」と書いていらるるがこれもまた間違いである
そうかと思うと同書タビラコの条に「本邦人日七草ノ葉ノ内仏ノ座是ナリ、四五月黄花開ク、民俗飯ニ加ヘ蒸食ス又アヘモノトス味美シ無毒」と書いてあって自家衝突が生じているがしかしこの第二の方が正説である。同書には更に「一説ニ仏ノ座ハ田平子也其葉蓮華ニ似テ仏ノ座ノ如シ其葉冬ヨリ生ズ」の文があって、タビラコとホトケノザとが同物であると肯定せられてある。そしてこの正説があるにかかわらず更に唇形科の仏ノ座を春の七種の一ダとしてあるのを観ると、貝原先生もちとマゴツイタ所があることが看取せられる。唇形科品の者をホトケノザという時はタビラコのホトケノザと混雑し、すこぶる不便を感ずる。それゆえ右の唇形科品の者はこれをカスミグサと通称する様にしたらよいと思う。このカスミグサ[#「カスミグサ」は底本では「カミスグサ」]の名は江戸の俗称で、この草が春霞の棚引く頃に咲き出ずるからそう呼ぶのダとの事である。しかしなおその他にホトケノツヅレ、トンビグサ、カザグルマ、サンガイグサ、シイベログサの数名がある。前に記したタビラコの稲槎菜は支那でも野人がこれを食する事が『植物名実図考』に見えていて「郷人茄之」だの「吾郷人喜食之」だのの語が記してある。

 要するに春の七種として今世間一般にいっている唇形科のホトケノザを用うるは極めて非でこれは誤認の甚だしいものである。仮令たとい小野蘭山がそうダといっていてもそれは決して正鵠を得たものではない。七種のホトケノザはキク科植物の一なるタビラコの古名である。このタビラコは飯沼慾斎よくさいの『草木図説』にコオニタビラコとしてその図が出ている。前にもいった様にこれは支那の稲槎菜でその図が『植物名実図考』に在る。すなわち日本ではタビラコ、支那では稲槎菜である。人によりゲンゲバナ(レンゲソウはこの植物本来の名では無い)をホトケノザと称すれどこれは非である。タビラコの和名はキク科の者が本当でムラサキ科の品は偽せ者である。この偽せ者をタビラコの本物と吹聴したのもまた蘭山である。蘭山は実にここに二つの誤謬をあえてしている。

2024年7月5日

ワスレグサと甘草/植物一日一題

ヤブカンゾウ

ワスレグサと甘草

 雑誌などによくワスレグサ「ヤブカンゾウ」のことを甘草と書いている人があるが、これは全く非で、このカンゾウに対してこの字を使うのはじつは間違いであることを知っていなければならない。これは萱草カンゾウと書かねばその名にはなり得ない。ワスレグサの苗を食ってみると、根元に多少甘味があるから、それで甘草だというのでない。

 萱は元来忘れるという意味の字で、それでその和名がワスレグサすなわち忘レ草となっている。このワスレグサの名は元来日本にはなかったが、萱草の漢名が伝ってから初めて出来た称呼だ。書物によれば中国の風習では何か心配事があって心が憂鬱なとき、この花に対すれば、その憂いを忘れるというので、この草を萱草と呼んだもんだ。そこでまた一つにこれを忘憂草とも称えまた療愁ともいわれる、すなわち療愁とは憂いを癒やす義である。

 中国の萱草は一重咲のものが主品である、すなわち学名でいえば Hemerocallis fulva L. である。この種名の fulva は褐黄色の意で、これはその花色に基づいたものである。この品は絶て日本には産しなく、ただ中国のみの特産である。それでこれをシナカンゾウともホンカンゾウともいわれる。上に書いたヤブカンゾウ「一名鬼カンゾウ」はその一変種で八重咲の花を開くが、面白いことにこれは中国ばかりでなく日本にも産する。つまり母種の一重咲のものはひとり中国のみに産し、その変種の八重咲のものが中国と日本とに産する。地質時代の昔の日本がまだアジア大陸に地続きになっていた時分にこの八重咲品のみが日本へ拡がっていて、その後中国と日本との間へ海が出来た後ち今にいたるまでこの八重咲品のみが日本の土地へ遺され、親子生き別れをしたものだ。中国の『救荒本草きゅうこうほんぞう』という書物にこの八重咲品の図が載っている。

 萱草を食用にすることは、日本よりも中国の方が盛んであるようだ。中国の本に「今人多   其嫩苗及花跗、葅  」と出て、また「人家園圃   」とも書いてある。また「花、葉芽倶ニ嘉蔬ナリ」ともある。また中国では「京師ノ人食フ 其土中ノ嫩芽ヲ一名ク二扁穿ト 」と述べてあるが、これはすなわち冬中に採る極めて初期の小さい嫩芽である。いつであったか数年前、東京の料理屋でこれを食膳に出したと聞いたことがあったがどこから仕入れたものか。これは通人の口に味う趣味的の珍らしい食品であって、多分少々舌に甘味を感ずるのであろう。おそらく扁穿とは扁ひらたき芽が土を穿って出るとの意味ではないかと思う。

 憂さを忘れるなら何にもワスレグサに限ったことはなく、綺麗な花なら何んでもよい筈だが、中国でたまたま草が乏しい場所であったのか、この大きな萱草の花を撰んで打ち眺めたものであろう。

美しき花を眺むる憂さ晴らし
思い余りし吾れの行く末

美しい花をながめりや憂ひを忘る
それがせめての心やり

忘れぐさ忘れたいもの山々あれど
忘れちゃならない人もある

ヤブカンゾウ

2023年2月12日

ツバキ「椿」/『植物記』

ツバキ「椿」

ツバキ『植物記』牧野富太郎

巻一 大行天皇幸于難波宮時歌 長皇子

73我妹子を早見浜風大和なる
吾を松椿吹かざるなゆめ

吾妹子乎わぎもこを 早見濱風 はやみはまかぜ 倭有やまとなる 吾松椿あをまつつばき 不吹有勿勤ふかざるなゆめ

 ツバキは椿である。この木は春盛んに花が咲くから木偏に春を書いてツバキとませたものである。すなわちツバキの椿は和字(日本で製した字)である。ゆえにその字に字音というものはない。しいて字音で呼びたければシュンというより外に途がない。多くの学者はこれを支那の椿(字音チン)と同字だと勘違いして日本のツバキを椿と書いては悪るいと言う人もあるが、その人の頭には少しも順序が立っていない。この支那の椿は昔、隠元いんげん禅師が帰化した時分に日本へ渡り来って今諸処にこれを見得るが、吾人はそれをチャンチンと呼んでいる。椿チンは『荘子そうじ』に八千歳を春となし八千歳を秋となすと出ているのでこの椿を日本人が日本の椿ツバキと継ぎ合せて文学者が八千代椿ヤチヨツバキなどの語を作ったもので、これはいわゆる竹に木を継いだようなものである。

 ツバキは我邦到る処に見る常緑の小喬木で、山地に自生するものもあればまた庭園にえてあるものもある。山に在るものは一重の赤花を開きこれをヤマツバキともヤブツバキとも称する。庭に在るものには八重咲花が多く、かつ花色も種々あって一様ではない。

 幹はかなり太くなり繁く枝を分ち密に葉を着ける。葉は葉柄をそなえ、枝に互生して左右の二列にならび厚くして光沢があり広い橢円形を成して葉縁に細鋸歯を有する。ツバキの名はこの葉が厚いから厚葉木アツバキの意でそのはじめのアが略せられたものだといい、また光沢があるに基いた名ともいわれている。

 花は小枝端に着き無柄で形ち大きく下に緑色の芽鱗と萼片とがあって花冠を擁している。花冠は一重咲のものは六、五片の花弁より成って基部は互に合体し謝する時はボタリと地に落ちる。花中に在る多雄蕊は本は相連合して筒の様に成り花冠と合体し葯は黄色の花粉を吐く。中央に一子房があって三つにわかれた花柱を頂き、子房の辺に蜜汁が分泌せらるるのでよく目白めじろの鳥がそれを吸いに来り、その際に花粉を柱頭に伝え媒助してくれる。ゆえにツバキは鳥媒花であるといえる。

 花の後にはその子房が日増しに生長して大きな円い実と成り、秋になって熟すれば、その厚い果皮が開裂して中から黒褐色の大きな種子が出ずる。この種子から搾り採ったのが椿油で伊豆の大島はその名産地の一である。  ツバキの漢名は山茶である。その葉がチャの実に類し、製すれば飲料となるのでそれで山茶の名があると支那の学者はいっている。

2023年2月7日

ニュウナイスズメ/02.04 上州藤岡

ニュウナイスズメ「♀入内雀」02.04/立春 上州藤岡

ニュウナイスズメ「♀入内雀」02.04/立春 上州藤岡

2月4日に撮った野鳥の名を教えてもらいました。で、ウェブ図鑑を覗き回って、ニュウナイスズメの雌でいいみたいと…

ウィキペディアに「本種の和名の由来については以下の三説が有名である」と
 スズメに見られる頬の黒斑を欠くことから、ほくろの古名であるにが無い雀、ということで斑無雀
 新嘗雀にいなめすずめがなまったものであるとする柳田國男の説
 藤原実方が本種に転生して宮中に入り込み、納税された米を食い荒らしたという伝説がある。宮中内廷に入る雀、で入内雀

どうやら広く分布していて里近くで暮らしているニュウナイスズメのようです

枕草子に「頭赤き すずめ」として出ています。皇居に入れるので入内にゅうないなのでしょう。と、書いてるサイトがありました。

枕草子 四十一段「鳥は」 ほぼ原文で

 鳥は、こと所のものなれど、鸚鵡あふむいとあはれなり。人の言ふらむことをまねぶらむよ。時鳥ほととぎす。くひな。しぎ宮古鳥みやこどり。ひは。火たき。

 山鳥。友を恋ひてなくに、鏡を見すればなぐさむらむ、心わかう、いとあはれなり。谷隔てたる程など心苦し。鶴は、いとこちたきさまなれど、なく声雲居まで聞ゆる、いとめでたし。

 かしら赤きすずめ斑鳩いかるがの雄鳥。たくみ鳥。

枕草子 四十一段「鳥は」 現代語訳で

 鳥は、異国のものであるがオウム、大層しみじみ面白い。人が何か言うと、それをまあ真似するそうだ。ホトトギス。クイナ。シギ。都鳥。ヒワ。ヒタキ。

 山鳥は、友を離れて鳴かぬので、鏡を見せたら慰められたのであろうか、うぶで、大変しみじみしている。谷をへだてるは、切なく思える。鶴は、いかにも仰々しい恰好だが、鳴き声は空まで聞こえる。たいそうめでたいことだ。

 かしらの赤いすずめ斑鳩いかるが雄鳥おどり。たくみ鳥。

ニュウナイスズメのオス

かしらの赤いすずめ

2021年9月17日

万葉歌のイチシ『植物一日一題』

ヒガンバナ

土手の彼岸花 2020/10/02 上州藤岡矢場

昨日(16日)のことです。食料調達して戻る途中に道路脇の花壇?で彼岸花ヒガンバナを見かけました。緑のストローで大地の赤を吸い上げて噴水のごとくに命の象徴を撒き散らしているように見へました。で、もう、この20日が "お彼岸の入り" ですね。青空文庫テキスト『植物一日一題』牧野富太郎、から「万葉歌のイチシ」をあげときます (^-^)

寄物陳思「巻十一・二四八〇」柿本人麻呂歌集出


みち壱師いちしの花の いちしろく
人皆知りぬわが恋妻こひづま


路邊 壹師花 灼然 人皆知 我戀攦


道ばたのイチシの花ではないが、はっきりと、世の人は皆知ってしまった。私の恋しい妻は、、、



 万葉人の歌、それは『万葉集』巻十一に出ている歌に「みちのべのいちしのはなのいちじろく、ひとみなしりぬあがこひづまは」(路辺壱師花灼然、人皆知我恋孋)というのがある。そしてこの歌の中に詠みこまれている壱師ノ花とあるイチシとは一体全体どんな植物なのか。古来誰もその真物を言い当てたとの証拠もなく、徒らにあれやこれやと想像するばかりである。なぜなれば、現代では最早そのイチシの名が廃たれて疾くにこの世から消え去っているから、今その実物が掴めないのである。ゆえにいろいろの学者が単に想像を逞しくして暗中模索をやっているにすぎない。

 甲の人はそれはシであるギシギシ「羊蹄」だといっている。乙の人はそれはメハジキのヤクモソウ(茺蔚ジュウイすなわち益母草)だといっている。丙の人はそれはイチゴの類だといっている。 丁の人はクサイチゴだといっている。戌の人はそれはエゴノキだといっている。そして一向に首肯すべきその結論に到着していない。

 そこで私もこの植物について一考してみた。初めもしやそれは諸方に多いケシ科のタケニグサすなわちチャンパギク「博落廻」ではないだろうかと想像してみた。この草は丈高く大形で、夏に草原、山原、路傍、圃地の囲回り、山路の左右などに多く生えて茂り、その茎の梢に高く抽んでている大形の花穂そのものは密に白色の細花を綴って立っており、その姿は遠目にさえも著しく見えるものである。だが私はそれよりも、もっともっとよいものを見つけて、ハッ! これだなと手を打った。すなわちそれはマンジュシャゲ「曼珠沙華の意」、一名ヒガンバナ「彼岸花の意」で、学名を Lycoris radiata Herb. と呼び、漢名を石蒜セキサンといい、ヒガンバナ科(マンジュシャゲ科)に属するいわゆる球根植物で襲重鱗茎しゅうじゅうりんけい(Tunicated Bulb)を地中深く有するものである。

 さてこのヒガンバナが花咲く深秋の季節に、野辺、山辺、路の辺、河の畔りの土堤、山畑の縁などを見渡すと、いたるところに群集し、高く茎を立て並びアノ赫灼かくしゃくたる真紅の花を咲かせて、そこかしこを装飾している光景は、誰の眼にも気がつかぬはずがない。そしてその群をなして咲き誇っているところ、まるで火事でも起こったようだ。だからこの草にはキツネノタイマツ、火焔カエンソウ、野ダイマツなどの名がある。すなわちこの草の花ならその歌中にある「灼然いちじろく」の語もよく利くのである。また「人皆知りぬ」も適切な言葉であると受け取れる。ゆえに私は、この万葉歌の壱師すなわちイチシは多分疑いもなくこのヒガンバナすなわちマンジュシャゲの古名であったろうときめている。が、ただし現在何十もあるヒガンバナの諸国方言中にイチシに彷彿たる名が見つからぬのが残念である。どこからか出て来い、イチシの方言!

2021年8月17日

オキナグサ/2007 上州藤岡

オキナグサ「翁草」 2007.03.31 上州藤岡 オキナグサ「翁草」 2007.04.05 上州藤岡 オキナグサ「翁草」 2007.04.05 上州藤岡

オキナグサ

『植物知識』牧野富太郎 

 春に山地に行くと、往々おうおうオキナグサという、ちょっと注意をく草に出逢であう。全体に白毛はくもうかぶっていて白く見え、他の草とはその外観が異っているので、おもしろくつ珍しく感ずる。葉は分裂ぶんれつしており、かぶから花茎かけいが立ち十数センチメートルの高さで花をけている。花は点頭てんとうして横向きになっており、日光が当たるとく開く。花の外面に多くの白毛が生じており、六ぺん花片かへん(実は萼片がくへんであって花弁はなく、萼片が花弁状をなしている)の内面は色が暗紫赤色あんしせきしょくていしている。花内かない多雄蕊たゆうずい多雌蕊たしずいとがある。わがくにの学者はこの草を漢名の白頭翁はくとうおうだとしていたが、それはもとより誤りであった。この白頭翁はくとうおうはオキナグサに酷似こくじした別の草で、それは中国、朝鮮に産し、まったくわが日本には見ない。ゆえに右日本のオキナグサを白頭翁はくとうおうてるのは悪い。

 さてこの草をなぜオキナグサ、すなわち翁草というかというと、それはその花がんで実になると、それが茎頂けいちょうに集合し白く蓬々ほうほうとしていて、あたかもおきな白頭はくとうに似ているから、それでオキナグサとそう呼ぶのである。この蓬々ほうほうとなっているのは、その実のいただきにある長い花柱かちゅう白毛はくもうが生じているからである。

 この草には右のオキナグサのほかになおたくさんな各地の方言があって、シャグマグサ、オチゴバナ、ネコグサ、ダンジョウドノ、ハグマ、キツネコンコン、ジイガヒゲ、ゼガイソウもその内の名である。右のゼガイソウは、すなわち善界草ぜんがいそうで、これは謡曲ようきょくにある赤態しゃぐまけた善界坊ぜんがいぼうから来た名である。

 『万葉集』にこの草をみ込んである歌が一つある。すなわちそれは、

 

芝付しばつき美宇良崎みうらざきなるねつこぐさ

相見ずあらばあれひめやも

 

 である。そしてこのネツコグサは、ネコグサの意で、オキナグサをしている。花に白毛が多いので、それで猫草といったものだ。

 このオキナグサは山野さんや向陽地こうようちに生じ、春早く開花するので、子女しじょなどに親しまれ、その花をって遊ぶのである。葉は花後かごに大きくなる。根は多年生で肥厚ひこうしており、毎年その株の頭部から花、葉が萌出ほうしゅつするのである。

 この草はキツネノボタン科に属し、その学名を Anemone cernua Thunb. とも、また Pulsatilla cernua Spreng. ともいわれる。そしてその種名の cernua は点頭てんとう、すなわち傾垂けいすいの意で、それはその花の姿勢しせいもとづいて名づけたものだ。

オキナグサ「翁草」 2007.03.31 上州藤岡

2021年7月29日

桃の伝説「意富加牟豆美命」/折口信夫

実りの桃 夏至/07.05 上州藤岡緑埜

もも三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、しつに逃げ返りき。ここに伊耶那岐いざなぎみこと、桃の子に告りたまはく、「いまし、吾を助けしがごと、葦原の中つ國にあらゆるうつしき青人草あおひとぐさの、き瀬に落ちて、患惚たしなまむ時に助けよ」とのりたまひて、意富加牟豆美おほかむづみみことといふ名を賜ひき…

『桃の伝説』折口信夫

「桃・栗三年、柿八年、柚は九年の花盛り」といふ諺唄がある。り物の樹としては、桃は果実を結ぶのは早い方である。
一体、桃には、魔除け・悪気ばらひの力があるものと信ぜられて来てゐる。わが国古代にも、既に、此桃の神秘な力を利用した話がある。黄泉の国に愛妻を見棄てゝ、遁れ帰られたいざなぎの命、、、、、、は、後から追ひすがる黄泉醜女よもつしこめをはらふ為に、桃の実を三つとりちぎつて、待ち受けて、投げつけた。其で、悪霊から脱れる事ができたので「今、おれを助けてくれた様に、人間たちが苦瀬うきせに墜ちて悩んだ場合にも、やはりかうして助けてやつてくれ」と、桃に言ひつけて、其名として、おほかむつみの命、、、、、、、、といふのを下されたと伝へてゐる。

後世の学者は、桃の魔除けの力を、此神話並びに支那の雑書類に見えた桃のまぢっく、、、、の力から、説明しようとして居る。支那側の材料は別として、いざなぎの命、、、、、、の話が、桃に対する信仰の起原の説明にはなつて居ない。寧、当時すでに、桃のさうした偉力が認められてゐたので、其為に出来た説明神話と言ふべきものであらう。何故ならば、偶然取つて投げた木の実が、災ひを遠ざけたといふ話は、故意に、其偉力を利用してゐるからであり、魔物を却けようとする民俗と、幾足も隔つてはゐないからである。尠くとも、古事記・日本紀の原になつてゐる伝説の纏まつた時代、晩くとも奈良の都より百年二百年以前に、既に行はれてゐた民俗の起原を見せて居るに過ぎない。

何故こんな風習があるのか訣らぬ処から、此話は出来たのである。さすれば、其風習は、何時頃、何処で生れたものであらうか。国産か、舶来か。此が問題なのである。書物ばかりに信頼することの出来る人は、支那にかうした習慣が古くからある処から、支那の知識が古く書物をとほして伝はつたもの、と説明してゐるのである。又、わが国固有の風習だと信じてゐる人もあるが、何れにしても、日支両国の古代に、同じやうな民俗があつたといふことは、興味もあり、難かしい問題でもある。此場合、正しい解釈が二とほり出来るはずである。

桃並びに其に似た木の実の上に、かうした偉力を認めてゐる民族は尠くない。だから、支那と日本とで、何の申し合せもなく、偶然に一致したものと考へるのが一つ、其から今一つは、わが国の歴史家が想像してゐる以上に、支那からの帰化人の与へた影響が多かつたところにある。 其は、此までの学者が書物の上の知識を、直ぐさま民間の実用に応用する事ができもし、つても来たと考へてゐる学問上の迷信が、目を昏まして、真相を掴ませなかつたのであるが、たくさんの帰化人の携へて来たものは、単に、文化的な物質や有効な知識ばかりではなかつた。其故土で信じ、行ひして来た固有の風俗・習慣・信仰をも其まゝ将来して来た。彼等の帰化の為方が、個人帰化ではなく、団体帰化として、全村の民が帰化したといふ様な場合が多かつたのであるから、彼等は憚る処なく、其民俗を行ひ、信じてゐた事が考へられる。文化の進んだ帰化人の間の民俗が、はいから、、、、きの民衆の模倣を促さずに居る筈はない。

支那並びに朝鮮に行はれてゐた道教では、桃の実を尊ぶことが非常である。知らぬ人もない西王母は道教の上の神で、彼の東方朔が盗み食ひをしたといふ三千年の桃の実を持つてゐたのである。かうした桃の神秘の力を信ずる宗教をもつ人々が、支那或は朝鮮から群をなして渡来し、其行ふところを、進歩した珍らしい風習として、まねる事が流行したとすれば、我々が考へるよりも根深く、ひろく行はれ亘つたものと思はれる。

古事記・日本紀にある話が、全然、神代の実録だ、といふやうなことは考へられないのであるから、此話が、人皇の代になつてから這入つて来た、舶来の民俗を説明してゐるものだ、といふことの出来ない訣はない。だから、右の神話は国産、民俗は古渡りの物というてもよろしからう。今日のところでは、此以上の説明はできないと思ふ。
何はしかれ、千五百年、或は二千年も前から、此桃の偉力は信ぜられてゐた。桃の果実が女性の生殖器に似てゐるところから、生殖器の偉力を以て、悪魔はらひをしたのだといふ考へは、此民俗の起原を説明する重要な一个条であらう。桃に限らず、他の木の実でも、又は植物の花にすら、生殖器類似のものがあれば、それを以て魔除けに利用する例はたくさんある。あの五月の端午の菖蒲のごときも、あやめ、、、しやが、、、かきつばた、、、、、など一類の花を、女精のしむぼる、、、、としてゐるのから見ても知れよう。
なほ一个条を加へるならば、初めに言うた、桃の実りの速かなことも、此民俗を生み出す原因になつたであらう。 桃といふ語は、類例から推して来ると「もも」の二番目の「も」字は、実の意味である。木の実の名称に行の音が多く附いてゐるのは、此わけである。単に、日本の言葉ばかりから、桃の民俗を説明するならば、桃と股、桃と百などいふ類音から説明はつくであらうが、同様の民俗をもつてゐるたくさんの民族があるとすれば、同じ言語の上の事実がなければ、完全な説明とはならぬのである。我が国の桃には、実りの多い処から出たといふ「百」からする説明もあるが、此はやはり、多産力の方面から見れば、此民俗の起原の説明にはなるだらう。

人間以外に偉力あるもの、其が人間に働きかける力が善であつても、悪であつても、人力を超越してゐる場合には、我々の祖先は、此に神と名を与へた。猛獣・毒蛇の類も、神と言ひ馴らしてゐる。山川・草木・岩石の類も亦神名を負うたものが多い。桃がおほかむつみ、、、、、、といふ神であるのも不思議はない。神名があるからとて、神代にこの事実があつたらう、といふ様な議論は問題にならない。

さて、桃太郎の話である。話が今の形の骨組みに纏まつたのは、恐らく、室町時代のことであらう。併し、其種は古くからあるのである。われわれの神話・伝説・童話は書物から書物へ伝はつて、最後に、人の口に行はれるといふやうな考へ方は無意味である。書物は、全部のうちの一斑をも伝へて居ないのである。併しながら、古代の話は、書物から採集する他はないので、同じく書物をとり入れるにしても、其用心は必要である。
聖徳太子と相並んで、日本の民間芸術の始めての着手者と考へられて来たはた河勝かわかつは、伝説的に潤色せられたところの多い人である。昔、三輪川を流れ下つた甕をあけてみると、中から子どもが出た。成長したのが右の河勝であると言はれてゐる。此話の種は近世のものではない。秦氏が帰化人であるごとく、話の根本も舶来種である。われわれの祖先の頭には、支那も朝鮮も、口でこそもろこしと言ひ、からから国、、、は古くは、朝鮮に限つてゐた)というて区別はしてゐるけれど、海の彼方の国といふ点で、ごつちや、、、、にしてゐた跡はたくさんに見える。支那から来たものとせられてゐる秦氏に、此河勝の出生譚があるところから見ると、秦氏の故郷の考へに、一つの問題が起る。

一体、朝鮮の神話の上の帝王の出生を説くものには、卵から出たものとする話が多い。其中には、河勝同然水に漂流した卵から生れたとするものもある。竹のの中にゐた赫耶かぐや姫と、朝鮮の卵から出た王達きんたちとを並べて、河勝にひき較べてみると、却つて、外国の卵の話の方に近づいてゐる。此は恐らく、秦氏が伝へた混血種あいのこだねの伝説であらうが、同じく桃太郎も、赫耶姫よりは河勝に似、或点却つて卵の王に似てゐる。
思ふに、桃太郎の話には、尚、菓物から生れた多くの類話があるに違ひない。奥州に行はれてゐる、瓜から生れた瓜子姫子などゝ、出生の手続きは似てゐる。桃太郎・瓜子姫子間に出生の後先きをつけるわけにはいかないが、話としては、瓜子姫子の方が単純である。ともかくも、甕から出た河勝と桃太郎・瓜子姫子との間には、書物だけでは訣らない、長く久しい血筋の続きあひがあるに違ひない。

海又は川の水に漂うて神の寄り来る話は、各地の社に其創建の縁起として、数限りなく伝へられてゐる。古書類にも同型の伝説が、沢山見えてゐるのみならず、今も、祭礼の度毎に海から神の寄り来給ふ、と信じてゐる社さへある。
遥かな水の彼方なる神の国から神が寄り来ると言ふ事を、誕生したばかりの小さな神が舟に乗つて流れつく、といふ風に考へてゐる人々もある。北欧洲の海岸の民どもが、其である。記・紀で見ても、蛭子ひるこノ命の話は、此筋を引くものであり、同様に、すくなひこなの神、、、、、、、、も、誕生した神と云ふべきが脱して伝はつたもの、と考へる事が出来る。
水のまにまに寄り来る物の中から、神が誕生すると言ふ形式が、我が国にも固有せられてゐて、或英雄神の出生譚となり、世降つて桃から生れた桃太郎とまでなり下りはしたが、人力を超越した鬼退治の力を持つて、生れたと言ふ処から見ても、桃太郎以前は神であつた事が知れよう。
桃太郎が成長して、鬼个島を征伐するやうになつてからの名を、百合若大臣だといふのが、其昔、鬼个島であつた、と自認してゐる壱岐の島人の間に伝はる話である。何故、桃太郎が甕からも瓜からも、乃至は卵からも出ないで、桃から出たか。其は恐らく、だんだん語りつたへられてゐる間に、桃から生れた人とするのが一番適当だ、といふ事情に左右せられて、さうなつたものと思はれる。聯想は、無限に伝説を伸すものである。

2021年7月24日

ヤマユリ 07.18 下日野

ヤマユリ 小暑/07.18 上州藤岡下日野 ヤマユリ 小暑/07.18 上州藤岡下日野 ヤマユリ 小暑/07.18 上州藤岡下日野

ヤマユリ『植物一日一題』牧野富太郎

 関西各地に多いササユリ(Lilium Makinoi Koidz)にも昔からヤマユリの一名があるが、今日普通に世人のいっているヤマユリは関東地方に多いユリであって、Lilium auratum Lindlの学名を有する。花は七、八月頃にひらき大形で香気多く、白色で花蓋片の中央部に黄を帯び紫褐点のあるのが普通品であるが、また紅色を帯ぶるものもある。そしてその色の濃い品を特にベニスジと称して珍重する。

 このユリの鱗茎、すなわち俗にいうユリ根は食用によろしい。ゆえに昔から関西各地では特に料理ユリの名がある。またさらに吉野ユリ、宝来寺ユリ、多武タブミネユリ、叡山ユリの名もある。また浮島ユリとも箱根ユリともいわれる。

 徳川時代にはこのユリをヤマユリの名では呼んでいなかったが、後ちこのヤマユリの名が段々東京を中心としてひろがって、普通一般の呼び名になったのは明治以降のことに属する。今日の人々はなにかと言えば直ぐヤマユリを持ち出すけれど、このヤマユリの名は近代において普通に幅を利かすようになったものである。それ以前は前記の通り料理ユリなどの名で呼んでいたのである。また徳川時代に出版になった『訓蒙図彙きんもうずい』や『絵本野山草えほんのやまぐさ』などにはオニユリ「巻丹」、ヒメユリ「山丹」、スカシユリ、カノコユリなどはあっても右のヤマユリの図は出ていない。

 このヤマユリは万葉歌とは全く関係はない。万葉歌と縁のあるものは主としてササユリ、オニユリ、ヒメユリである。多分コオニユリも見逃されないものであろう。
 ヤマユリは日本の特産で無論中国にはないから、昔の日本の学者がいうようにこれを天香百合とするのはもとよりあたっていない。

 

2021年6月30日

ムクゲとアサガオ『植物一日一題』

ムクゲ「槿/木槿」 夏至/06.28 上州藤岡

ムクゲとアサガオ

『植物一日一題』牧野富太郎 

 ムクゲすなわち木槿をアサガオと呼びはじめたのはそもそもいつ頃であって、そしてなぜまたそういったのであろうか。しかしこの名は正しいとはいえないのみならず、それは確かに間違っているのである。

 一体ムクゲの花は早朝に開き一日咲き通し、やがて晩に凋んで落ちる一日花で、朝から晩まで開き通しである。この点からみても朝顔の名は不穏当なものであるといえる。槿花一朝の栄とはいうけれど、この花は朝ばかりの栄ではなくて終日の栄である。すなわち槿花一日の栄だといわなければその花の実際とは合致しない。かくムクゲの花は前記の通り一日咲き通しで一日顔だから、これを朝顔というのはすこぶる当を得ていない。

 人によっては『万葉集』にある「朝顔は朝露負ひて咲くといへど、暮陰ゆふかげにこそ咲益さきまさりけり」の歌によって、秋の七種ななくさの歌の朝顔をムクゲだと考えたので、それでムクゲに初めてアサガオの名を負わせたのだ。それ以前からムクゲにアサガオの名があった訳ではない。つまり一つの誤認からアサガオの名が現われたのはちょうど蜃気楼のようなもんだ。

 私はここに断案を下してムクゲをアサガオというのは大間違いであると裁決する。不服なれば異議を申し立てよだ。不満があれば控訴でもせよだ。もしも私が敗北したら罰金を出すくらいの雅量はある。もしも金が足りなきゃ七ツ屋へ行き七、八おいて拵える。

 このムクゲは落葉灌木で元来日本の固有産ではないが、今はあまねく人家に花木として栽えられ、また生籬いけがきに利用せられ挿木が容易であるからまことに調法である。紀州の熊野川に沿った両岸には長い間、まるで野生になったムクゲがかの名物のプロペラ船で遡り行くとき下り行くとき見られる。人家にあるムクゲの常品は紅紫花一重咲のものだが、なおほかに純白花品、白花紅心品、紅紫八重咲品、白八重咲品等種々な変わり品があるが、こんな異品をひとところに蒐めて作りその花を賞翫しつつ槿花亭の風雅な主人となった人をまだ見たことがない。

 ムクゲは木槿の音転である。なおこれにはモクゲ、モッキ、ハチス、キハチス、キバチ、ボンテンカなどの方言がある。

 蕣の字音はシュンである。世間往々よくこの字をかの花を賞する Pharbitis Nil Choisy のアサガオだとして用いる人があるが、それはもとより間違いで、この蕣は木槿すなわちムクゲの一名であり、かの『詩経しきょう』には「顔如蕣華」とある。面白いのはムクゲの一名として朝開暮落花の漢名のあることである。今これを和名に訳せばアサザキクレオチバナである。また藩籬草ハンリソウの一名もあるが、これはムクゲがよく生籬になっているからである。

 万葉の歌に唐棣花ハネズという植物が詠みこまれてある。すなわち『万葉集』巻四の「念はじと曰ひてしものを唐棣花色の、うつろひやすきわが心かも」、同巻八の「夏まけて咲きたる唐棣花はねず久方ひさかたの、雨うち降らばうつろひなむか」、同巻十一の「山吹やまぶきのにほへる妹が唐棣花色はねずいろの、赤裳あかものすがたいめに見えつつ」、同巻十二の「唐棣花色はねずいろの移ろひ易きこころあれば、年をぞ来経きふことは絶えずて」などがこれであって、このハネズをニワザクラ(イバラ科)だという歌人もあれば、またそれはニワウメ(イバラ科)だと称える歌人もある。またそれはモンレン(モクレン科)だと異説を唱える歌人もいるが、今はまずニワウメ説が通っているようである。しかしこれをそうして取り極めねばならんなんらの確証は無論そこに何もなく、ただ空想でそういっているに過ぎない。そしてハネズなる名称はとっくに既にこの世から逸し去って今日に存していないのである。ところが或る昔の学者の一人は、それは木槿のムクゲすなわちハチス(アオイ科)だと唱えている。すなわちそれは正しいか否か分らんが、これはハネズの語をムクゲのハチスの語とが似ているので、そんな説を立てているのであろう。またハナズオウ(紫荊)だと主張する人もある。私は今このハネズの実物についてはなんら考えあたるところもないので、まずまずここにその当否を論ずることは見合わせておくよりほか途がない。しかしそのうちさらに考えてなんとかこの問題を解決してみたいとも思っている。

 ムクゲの葉は粘汁質である。私の子供の時分によくこれを小桶の中の水に揉んでその粘汁を水に出し、油屋の真似をして遊んだもんだ。

2021年6月6日

ハマユウの語源/植物一日一題

昨夕です。紀伊民報 AGARA「海岸で甘い香り ハマユウが白い花」を引用リツイートしました。
で、ハマユウの語源「植物一日一題」牧野富太郎としたんだけど今朝読んだら訳分からんばい。植物一日一題『ハマユウの語源』をアップました。時間のあるときに読んでみて… (°-°;

  ハマユウの語源  牧野富太郎

 ハマユウはハマオモトともハマバショウともいうもので、漢名は『広東新語かんとんしんご』にある文珠蘭ブンシュランであるといわれる。宿根生の大形常緑草本でヒガンバナ科に属し、Crinum asiaticum L. var. japonicum Baker の学名を有し、我国暖国の海浜に野生している。葉は多数叢生して開出し、長広な披針形を成し、質厚く緑色で光沢がある。茎は直立して太く短かい円柱形をなし、その葉鞘ようしょうが巻き重なって偽茎となっている。八、九月頃の候葉間から緑色のていを描き高い頂に多くの花が聚って繖形さんけいをなし、花は白色で香気を放ち、狭い六花蓋片がある。六雄蕊ゆうずい一子房があってその白色花柱の先端は紅紫色を呈する。花後に円実を結び淡緑色の果皮が開裂すると大きな白い種子がこぼれ出て沙上にころがり、その種皮はコルク質で海水に浮んで彼岸に達するに適している。そしてその達するところで新しく仔苗をつくるのである。

 葉の本の茎は本当の茎ではなく、これはその筒状をした葉鞘が前述のように幾重にも巻きかさなって直立した茎の形を偽装しており、これを幾枚にも幾枚にも剥がすことが出来、それはちょうど真っ白な厚紙のようである。

万葉集 巻第四496 柿本朝臣人麻呂 紀州 羈旅

み熊野の浦の浜木綿百重なす
  心は思へど直に逢はぬかも

三熊野之みくまぬの浦乃濱木綿うらのはまゆふ百重成ももへなす
  心者雖念こころはもへど直不相鴨ただにあはぬかも

という柿本人麻呂の歌がある。この歌中の浜木綿はまゆふはすなわちハマオモトである。この歌の中の百重成ももへなすの言葉はじつに千釣の値がある。浜木綿の意を解せんとする者はこれを見のがしてはならない。

 貝原益軒の『大和本草』に『仙覚抄せんがくしょう』を引いて「浜ユフハ芭蕉ニ似テチイサキ草也茎ノ幾重トモナクカサナリタル也ヘギテ見レバ白クテ紙ナドノヤウニヘダテアルナリ大臣ノ大饗ナドニハ鳥ノ別足ツヽマンレウニ三熊野浦ヨリシテノボラルヽトイヘリ」とある。また『綺語抄きごしょう』を引いて「浜ユフハ芭蕉ニ似タル草浜ニ生ル也茎ノ百重アルナリ」ともある。

 また月村斎宗碩げっそんさいそうせきの『藻塩草もしおぐさ』には「浜木綿」の条下の「うらのはまゆふ」と書いた下に

みくまのにあり此みくまのは志摩国也大臣の大饗の時はしまの国より献ずなる事旧例也是をもつて雉のあしをつゝむ也抑此はまゆふは芭蕉に似たる草のくきのかはのうすくおほくかさなれる也もゝへとよめるも同儀也又これにけさう文を書て人の方へやるに返事せねば其人わろしと也又云これにこひしき人の名をかきて枕の下にをきてぬればかならず夢みる也此みくまのは伊勢と云説もあり何にも紀州はあらず云々

とある。

 浜木綿とは浜に生じているハマオモトの茎の衣を木綿(ユフとは元来は楮すなわちコウゾの皮をもって織った布である。この時代にはまだ綿はなかったから畢竟木綿を織物の名としてその字を借用したものに過ぎないのだということを心に留めておかねばならない。ゆえにユフを木綿と書くのはじつは不穏当である)に擬して、それで浜ユフといったものだ。人によってはその花が白き幣を懸けたようなのでそういうといってるけれど、それは皮相の見で当っていない。本居宣長の『玉勝間たまがつま』十二の巻「はまゆふ」の条下に「浜木綿………浜おもとと云ふ物なるべし………七月のころ花咲くを其色白くてタリたるが木綿に似たるから浜ゆふとは云ひけるにや」と書いてあるが、「云ひにけるにや」とあってそれを断言してはいないが、花が白くて垂れた木綿に似ているから浜ユフというのだとの説は、疾に人麻呂の歌を熟知しおられるはずの本居先生にも似合わず間違っている。

 同じく本居氏の同書『玉勝間』木綿の条下に「いにしへ木綿ユフと云ひし物はカヤの木の皮にてそを布に織たりし事古へはあまねく常の事なりしを中むかしよりこなたには紙にのみ造りて布に織ることは絶たりとおぼへたりしに今の世にも阿波ノ国に太布タフといひて穀の木の皮を糸にして織れる布有り色白くいとつよし洗ひてものりをつくることなく洗ふたびごとにいよいよ白くきよらかになるとぞ」と書いて木綿が解説してある[牧野いう、土佐で太布《タフ》というのは麻《アサ》で製した布のものをそう呼んでいた]

 小笠原島にオオハマユウというものがある。その形状はハマユウすなわちハマオモトと同様でただ大形になっているだけである。この学名は Crinum gigas Nakai である。が、私は今これを Crinum asiaticum L. var. gigas(Nakai)Makino(nov. comb.)とするのがよいと信じている。

2021年5月31日

ヒルガオかな…

たぶんヒルガオ 小満/05.31 上州藤岡白石丘陵公園 たぶんヒルガオ 小満/05.31 上州藤岡白石丘陵公園 たぶんヒルガオ 小満/05.31 上州藤岡白石丘陵公園

大きめの花で葉に曲線部が多いと感じました。翼があればコヒルガオ。なければヒルガオてなことを聞きます。ずっとそうしてきたんですがアイノコヒルガオがいます。翼の有無だけで見分けるのは無理なようです。で、このところは花の大きさや葉の丸さなども観るようにしています。初心忘るべからず… (´ー`)

ヒルガオとコヒルガオ『植物一日一題』牧野富太郎

 日本のヒルガオには二つの種類があって、一つはヒルガオ(Calystegia nipponica Makino, nom. nov.=C. japonica Choisy non Convolvulus japonicus Thunb.)一つはコヒルガオ(Calystegia hederacea Wall.)である。これらは昼間に花が咲いているので、それで昼顔の名があって朝顔(Pharbitis hederacea Choisy var. Nil Makino=Ph. Nil Choisy)に対している。

 また右のヒルガオ、アサガオとは関係ないが、ついでだから記してみると、今日民間で夕顔と呼んでいるものはいわゆる Moon-flower(Calonyction Bona-nox Bojer)で、これは夕顔の名をかぶしているが、その正しい称えは夜顔(田中芳男たなかよしお氏命名)である。そして本当の夕顔は瓜類の夕顔(Lagenaria leucantha Rusby var. clavata Makino)で、これは昔からいう正真正銘のユウガオである。ここに四つの顔が揃った。すなわち朝顔、昼顔、夕顔、夜顔である。これを歌にすれば「四つの顔揃えて見れば立優る、顔はいづれぞ四つのその顔」

 古えより我国の学者はコヒルガオをヒルガオとし、ヒルガオをオオヒルガオと呼んでいるが、私の考えはこれと正反対で、右のヒルガオをコヒルガオとし、オオヒルガオをヒルガオと認定している。それはそうするのが実際的であり自然的であり、また鑑賞的であって、したがって先人の見解が間違っているとみるからである。

 なぜ昔からの日本の学者達は、その花が爽かで明るく、その大きさが適応で大ならず小ならず、その観た姿がすこぶる眼に快よいヒルガオの花が郊外で薫風にそよぎつつ、そこかしこに咲いているにかかわらず、花が小さくてみすぼらしく色も冴えなく、なんとなく貧相であまり引き立たないコヒルガオを特にヒルガオと称えたかと推測するに、それは古えより我国の学者が、随喜の涙を流して尊重した漢名すなわち中国名が禍をなしてこんな結果を生んだものだと私は確信している。そうでなければ一方に優れた花のヒルガオがあるにもかかわらず、花の美点の淡き貧困なコヒルガオを殊さらに選ぶ理屈はないじゃないか。

 中国の本草、園芸などの書物に旋花センカ、一名|鼓子花コシカ、別名|打碗花ダエンカ等があるが、これらは元来コヒルガオの漢名でヒルガオの名ではない。にもかかわらず日本の学者達はみなこれをヒルガオとしているから、そこで古来一般この旋花すなわち鼓子花がヒルガオの名になっているのである。そしてこの種以外にある優れた花のヒルガオを特にオオヒルガオと呼んでいるが、これはこのように取り扱うには及ばなく、このオオヒルガオをヒルガオとすればそれでよろしく、実際その花がヒルガオとしての価値を十分に発揮している。六、七、八月の候に野外でよくこれを見受けるが、この花をヒルガオそのものとすれば誰でも成るほどとうなずくのであろう。そして中国、否、アジア大陸にはこの品はなく、これは日本の特産でありすなわち一つの国粋花でもある。従来の本草学者はこれを『救荒本草きゅうこうほんぞう』に出ている藤長苗にあてているが当っていない。そしてこの藤長苗はその葉に底耳片なく茎には細毛ある種で、我がヒルガオとは全然異なっている。Bailey 氏の Manual of Cultivated Plants の書中にある Convolvulus japonicus Thunb. は日本(中国にもインドにもある)のコヒルガオと中国産の藤長苗(?)とが混説せられているようだ。そして Calystegia pubescens Lindl. は多分藤長苗の学名であろう。かつまた Convolvulus japonicus Thunb. はコヒルガオそのものであってヒルガオではない。

 ヒルガオには白花品があってこれをシロバナヒルガオと称する。古人の描いた図にも出ているが、私は先年これを紀州高野山で採集した。学名は Calystegia nipponica Makino var. albiflora Makino である。そしてこれを Calystegia subvolubilis Don var. albiflora Makino et Nemoto とするのは非で、この C. subvolubilis Don は全然日本になく、これは大陸の種である。そして日本のヒルガオは日本の特産で大陸にはなく、したがって中国にも産しない。ゆえにヒルガオには漢名はない。上記の如く旋花、一名鼓子花を昔からヒルガオとしてあるこのいわゆるヒルガオは前述の通りにまさにコヒルガオそのものであり、またあらねばならない。

 旋花の意味は、その花の花冠(Corolla)が弁裂せずに完全に合体して、環に端がないように、その縁がめぐっているからだといわれる。また鼓子花の意味はその形が軍中で吹く鼓子に似ているからだとのことである。そうするとこの鼓子は、鼓のようにポンポン打つもんではなくて、ブーブーと吹き鳴らす器である。

2021年4月1日

スミレ

スミレ 春分/04.01 上州藤岡

月が改まって4月1日。もうスミレが咲いてました。さくらは散り始めちゃったけどね (°-°;

スミレ

『植物知識』牧野富太郎 

 春の野といえば、すぐにスミレが連想せられる。実際スミレは春の野に咲く花であるが、しかし人家の庭には栽培してはいない。万葉歌の中にはスミレが出ているから、歌人かじんはこれに関心を持っていたことがわかる。すなわちその歌は、「春の野にすみれ摘みにと来し吾ぞ、野をなつかしみ一夜宿にける」である。

 スミレは今、いろいろのスミレの種類を総称するような名ともなっていれど、その中で特にスミレというのは、スミレ品類中一等優品で、濃紫色のうししょくの花を開く無茎性むけいせい叢生種そうせいしゅの名であって、これを学名では、Viola mandshurica W.Beck. といっている。満州「中国の東北地方一帯」にも産するので、それで mandshurica「満州の」という意味の種名がついている。

 そして日本にはスミレの品種が実に百種ほど「変種を入れるとこれ以上」もあって、これがみなスミレ属 Viola に属する。これによってこれをれば、日本は実にスミレ品種では世界の一等国といってよい。

 スミレ、すなわち Viola mandshurica W.Beck. は宿根草しゅっこんそうで、葉は一株に叢生そうせい長葉柄ちょうようへいがあり、葉面ようめんは長形で鈍鋸歯どんきょしがある。葉と同じ株から花茎かけいいて花が咲くのだが、花は茎頂けいちょうに一輪き、側方そくほうに向こうて開いている。花茎にはかならずその途中に狭長きょうちょうほうがほとんど対生たいせいしていており、花には緑色の五萼片がくへんと、色のある五花弁かべんと、五雄蕊ゆうずいと、一雌蕊しずいとがある。花茎は一株から一、二本、えた株では十本余りも出ることがある。そして濃紫色の花が、いつも人目ひとめくのである。

 五へんの花弁中、下方の一花弁には、うしろに突き出たきょと称するものを持っている。元来、このスミレの花は虫媒花ちゅうばいかなれども、今日ではたいていのスミレ類は果実がみのらない。そして花の済んだ後に、微小なる閉鎖花へいさかがしきりに生じて自家受精をなし、く果実ができる特性がある。ゆえにスミレの美花びかはまったくむだに咲いているわけだ。しかしここにいう Viola mandshurica W. Beck. のスミレは、その常花じょうかの後で能く果実の稔っているものを見かけることがある。このスミレもその後では、しきりと閉鎖花によっての果実が続々とできるのである。

 いったい、スミレの花は昆虫に対し、とても巧妙にできている。まず花は側方そくほうに向いているので、昆虫が来て止まるに都合がよい。花弁は上の方に二へん、両側に二片、下の方に一片がある。そしてこの一片の後方に一つの距のあることは、前に記したとおりである。

 花が開いていると、たちまち蜜蜂のごとき昆虫の訪問がある。それは花の後ろにある距の中のみつを吸いに来たお客様である。さっそく自分の頭を花中へ突き入れる。そしてそのくちばしを距の中へ突き込むと、その距の中に二つの梃子てこのようなものが出ていてそれに触れる。この梃子ようのものは、五雄蕊ゆうずい中の下の二雄蕊から突き出たもので、昆虫の嘴がこれに触れてそれを動かすために、雄蕊のやくが動き、その葯からさらさらとした油気のない花粉が落ちて来て、昆虫の毛のある頭へ降りかかる。

 そしてこの昆虫がよい加減みつを吸うたうえは、頭に花粉をつけたままこの花を辞し去って他の花へ行く。そして同じく花中へ頭を突き込む。その時、前の花から頭へつけて来た花粉を今度の花の花柱かちゅう、それはちょうど昆虫の頭のところへ出て来ている花柱の末端の柱頭ちゅうとうへつける。この柱頭には粘液が出ていて、持って来た花粉がそれに粘着する。花粉が粘着すると、さっそく花粉管が花粉より延び出て、花柱の中を通って子房しぼうの中の卵子に達し、それから卵子が生長して種子となるが、それと同時に子房は成熟して果実となるのである。

 実にスミレ類は、このように昆虫とは縁の深い関係になっているのである。しかしかく昆虫に努力させても、花が果実を結ばず無駄むだ咲きをしているものが多いのは、まことにもったいなき次第である。それはちょうど水仙の花、ヒガンバナの花などと同じおもむきである。

 スミレの葉は花後に出るものは、だんだんとその大きさを増し、形も長三角形となって花の時の葉とはだいぶ形が違ってくる。

 スミレの果実は三殻片かくへんからなっているので、それが開裂するとまったく三つの殻片に分かれる。そしてその各殻片内に二列に並ぶ種子を持っている。殻片が開いたその際は、その種子があたかも舟に乗ったように並んでいるのだが、その殻片がだんだんかわくと、その両縁が内方に向こうて収縮、すなわち押しせばめられ、ついにその種子を圧迫して急に押し出し、それを遠くへ飛ばすのである。なんの必要があってかく飛ばすのか、それは広く遠近の地面へ苗をえさせんがためなのである。

 またそれのみならず、その種子には肉阜にくふ「カルンクル」と呼ぶ軟肉が着いていて、これがありの食物になるものだから、その地面に転がっている種子を蟻が見つけると、みなそれをわが巣に運び入れ、すなわちその軟肉を食い、その堅い種子をばもはや不用として巣の外へ出し捨てるのである。この出された種子は、その巣の辺で発芽するか、あるいは雨水に流され、あるいは風に飛んで、その落ちつく先で発芽する。かくてそのスミレがそこここに繁殖することになる。このように、この肉阜が着いている種子はクサノオウ、キケマン、タケニグサなどのものもみなそうで、いずれもみな蟻へのごちそうを持っているわけだ。かく植物界のことに気をつけると、なかなかおもしろい事柄が見いだされるのである。

2021年3月4日

神いくさ/日本の伝説/柳田國男

神いくさ『日本の伝説』     柳田国男

 日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました。人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に、山も競争せずにはいられなかったのかと思われます。古いところでは、常陸の筑波山つくばさんが、低いけれども富士よりも好い山だといって、そのいわれを語り伝えておりました。大昔御祖神みおやがみが国々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行って一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗にいなめの祭りで家中が物忌みをしていますから、お宿は出来ませぬといって断りました。筑波の方ではそれと反対に、今夜は新嘗ですけれども構いません。さあさあお泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。神様は非常に御喜びで、この山永く栄え人常にきたり遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないようにと、めでたい多くの祝い言を、歌に詠んで下されました。筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新嘗の前の晩に大切なお客様を、帰してしまった罰だといっておりますが、これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人ばかりが、語り伝えていた昔話なのであります。「常陸国風土記。茨城県筑波郡」

 富士と浅間山が煙りくらべをしたという話も、ずいぶん古くからあった様ですが、それはもう残っておりません。不思議なことには富士の山でまつる神を、以前から浅間大神ととなえておりました。富士の競争者の筑波山の頂上にも、どういうわけでか浅間せんげん様が祀ってあります。それから伊豆半島の南の端、雲見くもみ御嶽山みたけやまにも浅間の社というのがありまして、この山も富士と非常に仲が悪いという話でありました。いつの頃からいい始めたものか、富士山の神は木花開耶媛このはなさくやひめ、この山の神はその御姉の磐長媛いわながひめで、姉神は姿が醜かった故に神様でもやはり御ねたみが深く、それでこの山に登って富士のうわさをすることが、出来なかったというのであります。「伊豆志其他。静岡県賀茂郡岩科村雲見」

 ところがこれから僅二里あまり離れて、下田しもだの町の後には、下田富士という小山があって、それは駿河の富士の妹神だといっております。そうして姉様よりも更に美しかったので、顔を見合せるのがいやで、間に天城山あまぎさん屏風びょうぶのようにお立てになった。それだから奥伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいうそうであります。おおかたもと一つの話が、後にこういう風に変って来たものだろうと思います。「郷土研究一編。同県同郡下田町」

 越中舟倉山ふなくらやまの神は姉倉媛あねくらひめといって、もと能登の石動山せきどうさん伊須流伎彦いするぎひこの奥方であったそうです。その伊須流伎彦が後に能登の杣木山そまきやまの神、能登媛を妻になされたので、二つの山の間に嫉妬しっとの争いがあったと申します。布倉山ぬのくらやまの布倉媛は姉倉媛に加勢し、甲山かぶとやま加夫刀彦かぶとひこは能登媛を援けて、大きな神戦かみいくさとなったのを、国中の神々が集って仲裁をなされたと伝えております。一説には毎年十月十二日の祭りの日には、舟倉と石動山と石合戦があり、舟倉の権現がつぶてを打ちたもう故に、この山のふもとの野には小石がないのだともいっておりました。「肯構泉達録等。富山県上新川郡船崎村舟倉」

 これと反対に、阿波の岩倉山は岩の多い山でありました。それは大昔この国の大滝山と、高越山こうつさんとの間に戦争があった時、双方から投げた石がここに落ちたからといっております。そうして今でもこの二つの山に石が少いのは、互にわが山の石を投げ尽したからだということであります。「美馬郡郷土誌。徳島県美馬郡岩倉村」

 それよりも更に有名な一つの伝説は、野州やしゅうの日光山と上州の赤城山との神戦でありました。古い二荒ふたら神社の記録に、くわしくその合戦のあり様が書いてありますが、赤城山はむかでの形を現して雲に乗って攻めて来ると、日光の神は大蛇になって出でてたたかったということであります。そうして大蛇はむかでにはかなわぬので、日光の方が負けそうになっていた時に、猿丸太夫という弓の上手な青年があって、神に頼まれて加勢をして、しまいに赤城の神をおい退けた。その戦をした広野を戦場が原といい、血は流れて赤沼となったともいっております。誰が聞いても、ほんとうとは思われない話ですが、以前は日光の方ではこれを信じていたと見えて、後世になるまで、毎年正月の四日の日に、武射ぶしゃ祭りと称して神主が山に登り赤城山の方に向って矢を射放つ儀式がありました。その矢が赤城山に届いて明神の社の扉に立つと、氏子たちは矢抜きの餅というのを供えて、扉の矢を抜いてお祭りをするそうだなどといっておりましたが、果してそのようなことがあったものかどうか。赤城の方の話はまだわかりません。「二荒山神伝。日光山名跡志等」

 しかし少くとも赤城山の周囲においても、この山が日光と仲が悪かったこと、それから大昔神戦があって、赤城山が負けて怪我をなされたことなどをいい伝えております。利根郡老神おいがみの温泉なども、今では老神という字を書いていますが、もとは赤城の神が合戦に負けて、逃げてここまで来られた故に、追神ということになったともいいました。「上野志。群馬県利根郡東村老神」

 それからまた赤城明神の氏子だけは、決して日光にはまいらなかったそうであります。赤城の人が登って来ると必ず山が荒れると、日光ではいっておりました。東京でも牛込うしごめはもと上州の人の開いた土地で、そこには赤城山の神を祀った古くからの赤城神社がありました。この牛込には徳川氏の武士が多くその近くに住んで、赤城様の氏子になっていましたが、この人たちは日光に詣ることが出来なかったそうであります。もし何か役目があって、ぜひ行かなければならぬ時には、その前に氏神に理由を告げて、その間だけは氏子を離れ、築土つくどの八幡だの市谷いちがやの八幡だのの、仮の氏子になってから出かけたということであります。「十方庵遊歴雑記」

 奥州津軽の岩木山の神様は、丹後国の人が非常にお嫌いだということで、知らずに来た場合でも必ず災がありました。昔は海が荒れたり悪い陽気の続く時には、もしや丹後の者が入り込んではいないかと、宿屋や港の船を片端からしらべたそうであります。これはこの山の神がまだ人間の美しいお姫様であった頃に、丹後の由良ゆらという所でひどいめにあったことがあったから、そのお怒が深いのだといっておりました。「東遊雑記その他」

 信州松本の深志ふかしの天神様の氏子たちは、島内村の人と縁組みをすることを避けました。それは天神は菅原道真であり、島内村の氏神たけの宮は、その競争者の藤原時平ときひらを祀っているからだということで、嫁婿ばかりでなく、奉公に来た者でも、この村の者は永らくいることが出来なかったそうであります。「郷土研究二編。長野県東筑摩郡島内村」

 時平を神に祀ったというお社は、また下野しもつけ古江ふるえ村にもありました。これも隣りの黒袴くろばかまという村に、菅公かんこうを祀った鎮守の社があって、前からその村と仲が悪かったゆえに、こういう想像をしたのではないかと思います。この二つの村では、男女の縁を結ぶと、必ず末がよくないといっていたのみならず。古江の方では庭に梅の木を植えず、また襖屏風ふすまびょうぶの絵に梅を描かせず、衣服の紋様にも染めなかったということであります。「安蘇史。栃木県安蘇郡犬伏町黒袴」

 下総の酒々井しすい大和田というあたりでも、よほど広い区域にわたって、もとは一箇所も天満宮を祀っていませんでした。その理由は鎮守の社が藤原時平で、天神の敵であるからだといいましたが、どうして時平大臣を祀るようになったかは、まだ説明せられてはおりません。「津村氏譚海。千葉県印旛郡酒々井町」

 丹波の黒岡という村は、もと時平公の領分であって、そこには時平屋敷しへいやしきがあり、その子孫の者が住んでいたことがあるといっていました。それはたしかな話でもなかったようですが、この村でも天神を祀ることが出来ず、たまたま画像えぞうをもって来る者があると、必ず旋風つむじかぜが起ってその画像を空に巻き上げ、どこへか行ってしまうといい伝えておりました。「広益俗説弁遺篇。兵庫県多紀郡城北村」

 何か昔から、天神様を祀ることの出来ないわけがあって、それがもう不明になっているのであります。それだから村に社があれば藤原時平のように、生前菅原道真と仲が悪かった人の、社であるように想像したものかと思います。鳥取市の近くにも天神を祀らぬ村がありましたが、そこには一つの古塚があって、それを時平公の墓だといっておりました。こんな所に墓があるはずはないから、やはり後になって誰かが考え出したのであります。「遠碧軒記。鳥取県岩美郡」

 しかし天神と仲が善くないといった社は他にもありました。例えば京都では伏見ふしみ稲荷いなりは、北野の天神と仲が悪く、北野に参ったと同じ日に、稲荷の社に参詣してはならぬといっていたそうであります。その理由として説明せられていたのは、今聞くとおかしいような昔話でありました。昔は三十番神といって京の周囲の神々が、毎月日をきめて禁中の守護をしておられた。菅原道真の霊がらいになって、御所の近くに来てあばれた日は、ちょうど稲荷大明神が当番であって、雲に乗って現れてこれを防ぎ、十分にその威力を振わせなかった。それゆえに神に祀られて後まで、まだ北野の天神は稲荷社に対して、怒っていられるのだというのでありますが、これももちろん後の人がいい始めたことに相違ありません。「渓嵐拾葉集。載恩記等」

 あるいはまた天神様と御大師様とは、仲が悪いという話もありました。大師の縁日に雨が降れば、天神の祀りの日は天気がよい。二十一日がもし晴天ならば、二十五日は必ず雨天で、どちらかに勝ち負けがあるということを、京でも他の田舎でもよくいっております。東京では虎の門の金毘羅様こんぴらさまと、蠣殻町かきがらちょう水天宮すいてんぐう様とが競争者で、一方の縁日がお天気なら他の一方は大抵雨が降るといいますが、たといそんなはずはなくても、なんだかそういう気がするのは、多分は隣り同士の二箇所の社が、互に相手にかまわずには、ひとりで繁昌することが出来ぬように、考えられていた結果であろうと思います。
 だから昔の人は氏神といって、殊に自分の土地の神様を大切にしておりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お参りをするようになっても、信心をする神仏は土地によって定まり、どこへ行って拝んでもよいというわけには行かなかったようであります。同じ一つの神様であっても、一方では栄え他の一方では衰えることがあったのは、つまりは拝む人たちの競争であります。京都では鞍馬くらま毘沙門様びしゃもんさまへ参る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があって、もとはこれを福惜しみの毘沙門などといっておりました。せっかく鞍馬に詣って授かって来た福を、惜しんで奪い返されるといって、鞍馬参詣の人はこの堂を拝まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るようにしていたといいます。同じ福の神でも祀ってある場所がちがうと、もう両方へ詣ることは出来なかったのを見ると、仲の善くないのは神様ではなくて、やはり山と山との背競べのように、土地を愛する人たちの負け嫌いが元でありました。松尾のお社なども境内に熊野石があって、ここに熊野の神様がお降りなされたという話があり、以前はそのお祭りをしていたかと思うにもかかわらず、ここの氏子は紀州の熊野へ参ってはならぬということになっていました。それから熊野の人もけっして松尾へは参って来なかったそうで、このいましめを破ると必ずたたりがありました。これなども多分双方の信仰が似ていたために、かえって二心を憎まれることになったものであろうと思います。「都名所図会拾遺。日次記事」

 どうして神様に仲が悪いというような話があり、お参りすればたたりを受けるという者が出来たのか。それがだんだんわからなくなって、人は歴史をもってその理由を説明しようとするようになりました。例えば横山という苗字の人は、常陸の金砂山かなさやまに登ることが出来ない。それは昔佐竹氏の先祖がこの山に籠城ろうじょうしていた時に、武蔵の横山党の人たちが攻めて来て、城の主が没落することになったからだといっていますが、この時に鎌倉将軍の命をうけて、従軍した武士はたくさんありました。横山氏ばかりがいつまでもにくまれるわけはないから、これには何か他の原因があったのであります。「楓軒雑記。茨城県久慈郡金砂村」

 東京では神田かんだ明神のお祭りに、佐野氏の者が出て来ると必ずわざわいがあったといいました。神田明神では平将門たいらのまさかどの霊を祀り、佐野はその将門を攻めほろぼした俵藤太秀郷たわらとうたひでさと後裔こうえいだからというのであります。下総成田しもうさなりたの不動様は、秀郷の守り仏であったという話でありますが、東京の近くの柏木かしわぎという村の者は、けっして成田には参詣しなかったそうであります。それは柏木の氏神よろい大明神が、やはり平将門の鎧を御神体としているといういい伝えがあったからであります。「共古日録。東京府豊多摩郡淀橋町柏木」

 信州では諏訪の附近に、守屋という苗字の家がたくさんにありますが、この家の者は善光寺にお詣りしてはいけないといっておりました。強いて参詣すると災難があるなどともいいました。それはこの家が物部守屋連もののべのもりやのむらじの子孫であって、善光寺の御本尊を難波なにわ堀江に流し捨てさせた発頭人ぼっとうにんだからというのでありますが、これも恐らくは後になって想像したことで、守屋氏はもと諏訪の明神に仕えていた家であるゆえに、他の神仏を信心しなかったまでであろうと思います。「松屋筆記五十。長野県長野市」

 天神のお社と競争した隣りの村の氏神を、藤原時平を祀るといったのは妙な間違いですが、これとよく似た例はまた山々の背くらべの話にもありました。富士と仲の悪い伊豆の雲見の山の神を、磐長媛であろうという人があると、一方富士の方ではその御妹の、木花開耶媛を祀るということになりました。どちらが早くいい始めたかはわかりませんが、とにかくにこの二人の姫神は姉妹で、一方は美しく一方はみにくく、嫉みからお争いがあったように、古い歴史には書いてあるので、こういう想像が起ったのであります。伊勢と大和の国境の高見山という高い山は、吉野川の川下の方から見ると、多武峰とうのみねという山と背くらべをしているように見えますが、その多武峰には昔から、藤原鎌足ふじわらのかまたりを祀っておりますゆえに、高見山の方には蘇我入鹿そがのいるかが祀ってあるというようになりました。入鹿をこのような山の中に、祀って置くはずはないのですが、この山に登る人たちは多武峰の話をすることが出来なかったばかりでなく、鎌足のことを思い出すからといって、鎌を持って登ることさえもいましめられておりました。そのいましめを破って鎌を持って行くと、必ず怪我をするといい、または山鳴りがするといっておりました。「即事考。奈良県吉野郡高見村」

 この高見山の麓を通って、伊勢の方へ越えて行く峠路の脇に、二丈もあるかと思う大岩が一つありますが、土地の人の話では、昔この山が多武峰と喧嘩をして負けた時に、山の頭が飛んでここに落ちたのだといっております。そうして見ると蘇我入鹿を祀るよりも前から、もう山と山との争いはあったので、その争いに負けた方の山の頭が、飛んだという点も羽後うご飛島とびしま、或は常陸の石那阪の山の岩などと、同様であったのであります。どうしてこんな伝説がそこにもここにもあるのか。そのわけはまだくわしく説明することが出来ませんが、ことによると負けるには負けたけれども、それは武蔵坊弁慶が牛若丸だけに降参したようなもので、負けた方も決して平凡な山ではなかったと、考えていた人が多かった為かも知れません。ともかくも山と山との背くらべは、いつでも至って際どい勝ち負けでありました。それだから人は二等になった山をも軽蔑けいべつしなかったのであります。日向ひゅうがの飯野郷というところでは、高さ五ひろほどの岩が野原の真中にあって、それを立石たていし権現と名づけて拝んでおりました。そこから遠くに見える狗留孫山くるそざんの絶頂に、卒都婆そとば石、観音石という二つの大岩が並んでいて、昔はその高さが二つ全く同じであったのが、後に観音石の頸が折れて、神力をもって飛んでこの野に来て立った。それ故に今では低くなりましたけれども、人はかえってこの観音石の頭を拝んでいるのであります。「三国名所図会。宮崎県西諸県郡飯野村原田」

 肥後の山鹿やまがでは下宮の彦嶽ひこだけ権現の山と、蒲生がもうの不動岩とは兄弟であったといっております。権現は継子ままこで母が大豆ばかり食べさせ、不動は実子だから小豆を食べさせていました。後にこの兄弟の山が綱を首に掛けて首引きをした時に、権現山は大豆を食べていたので力が強く、小豆で養われた不動岩は負けてしまって、首をひき切られて久原くばらという村にその首が落ちたといって、今でもそこには首岩という岩が立っています。ゆるだけという岩はそのまん中に立っていて、首ひきの綱に引っ掛かってゆるいだから揺嶽、山に二筋のくぼんだところがあって、そこだけ草木の生えないのを、綱ですられたあとだといい、小豆ばかり食べていたという不動の首岩の近くでは、今でもそのために土の色が赤いのだというそうであります。「肥後国志等。熊本県鹿本郡三玉村」

2021年2月17日

山の娘たちとラジオ/桐生通信

夏に仕事ができなくなるのが例であったが、今年は人のすすめで大半伊香保ですごしたせいで仕事ができた。

一般に山中の温泉は山また山にかこまれた谷川沿いにあるものだが、伊香保は山の斜面にあって前面は空間のひろがりだから、はるばる空を渡って流れこむ風がさわやかだ。その代り町全体が石段の斜面だからデブの私には町の散歩が苦手だ。車で榛名湖へ行って歩くのが仕事のあとのたのしみであった。かん木ばかりのせいか、榛名は山の道も湖もきわだって明るいのが特色だ。

仕事のあいまに家から生後一年の子供をよぶ。子供は温泉で遊ぶのが好きだ。ある日宿の水差しのフタをオモチャに遊んでいてこわしたので女中にわびると、女中が言下に「ハア、先日水差しの下の方をこわしたお客さまがありましてね、ちょうどよろしゅうございます」と言った。あまりのことにメンくらったが、窓から吹きこむ山の冷気にもましてそう快でもあった。

こういう海からはなれた温泉地や私の住む桐生などでも今年の特色はマグロのややマシなのがフンダンにあることだ。去年など桐生ではお祭の時でもなければ本マグロが見られなかった。今年は常に本マグロがある。田舎がマグロを食う年らしい。私もガイガー計数管を信用して大いに食っているのである。伊香保では一晩だけだったが、すてきなトロにめぐりあってお代りした。

桐生で生きている魚がたべられるのはウナギのほかには夏のアユだけだ。したがって夏の来客へのゴチソウはもっぱらアユだ。去年から桐生川にヤナができたので、ヤナから直接買うことにしたが、焼くとサンマのようにアブラが強くてモウモウと黒煙がたつ。食ってみるとほとんどアユの香がない。へんなアユだが、仕方がないので、友人には「桐生のサンマアユというやつでね。日本一まずいところが値打なんだ。モウモウとケムがでてアユの香のしないのが珍しい」といってすすめた。

友人たちも食ってみて「なるほど珍しいアユだ」とおもしろがってくれた。私は考えたのである。桐生川の川底の石にはこのあたりの子供たちがチョロとよんでいる虫が無数についている。ゴカイを小さくして透明にしたような虫だ。ここのアユはそれを食ってるせいでサンマになるんじゃないかと思ったのである。伊東のアユが温泉旅館のカスで育つせいかエサをつけないと釣れないようなものだ。

ところが先日漁業組合員の魚屋がきて、
「桐生川のアユは日本一ですよ。これがそうですから食ってみて下さい」
「食わなくともわかってるよ。モウモウとケムがでてサンマの味がするんだろう」
「いえ、あれはね、去年はヤナがはじめての仕掛けですからちょっとの出水でしょっちゅうこわれてアユがとれなかったんです。仕方なしに前橋から養殖アユをとりよせてごまかしてたんで。サナギで育ったアユだからケムがでるのは当り前でさア」

正体がわかってみるとつまらない。チョロをくって日本一まずいアユという方がゴアイキョウのような気がした。

お医者のYさんが女房にすすめた。女中はこの土地の娘にかぎるからとサラサラとソラで三つの中学校の所を書いて学校へ依頼状をだしなさいとすすめてくれたのである。ちょうど卒業期に当っていたのが幸運で、二つの中学からそれぞれ一名の新卒業生を世話してくれて、母親と先生がつきそってつれてきてくれたのである。先生がくりかえしいうには、「本当に何も知らないのですから、それだけはカクゴして下さい」見るからに小さい少女たちであった。こんな小さい子供に何かやらせてよいのかと心配になったほどだ。

私もその村々は一度バスで通ったので知っていた。桐生からバスで一時間半から二時間ぐらい渡良瀬川をさかのぼったところだ。人は飛騨を山奥の国というが、飛騨だって車窓から見る山々には段々畑が見える。渡良瀬山峡の村々には完全に段々畑すら見ることができないので、この土地の人々は昔は何をたべていたろうと不思議に思った村々であった。このあたりの女中が一番長くいつくというのはさもあろうと私も思った。

電話のかけ方も知らないし、ガスのつけ方も知らない。電話のベルがなると静かに戸をあけて、一礼して「ただいま電話が鳴っております」と報告する。報告しなくたってベルの音はきこえるよ。ゆうゆうたる物腰、雅致があってよかったが、不便でもあった。山の中にも電灯だけはあるから、ガスも電灯なみにセンをひねるだけでよいと心得たのは当然で、殺されかけたこともあったが、これくらい何も知らずに働きにきてくれる子は、かえっていじらしく、かわいいものだ。わが家にいるうちに一人前のオヨメになれるだけのことをしてやりたいという責任を感じるものである。

この子たちが都会の子供なみに知っていたのは流行歌である。ラジオのせいだ。どんな歌でも、むしろ都会の子以上に知っている。ラジオのほかに何もないせいだろう。先日も冗談音楽の主題歌をうたっているのをふと聞いたが、なるほどワンマン政府がラジオを気に病むのは自然だなと思ったのである。

今日は安吾忌です。「山の娘たちとラジオ/桐生通信」坂口安吾。あっ、青空文庫ファイルから… (^-^)
初出:「読売新聞 第二七七五五号~第二八〇二五号」1954(昭和29)年3月11日~12月6日

2020年8月1日

イワタバコ

イワタバコ(岩煙草)07/29 上州吉井谷不動尊 イワタバコ(岩煙草)07/29 上州吉井谷不動尊 イワタバコ(岩煙草)07/29 上州吉井谷不動尊 イワタバコ(岩煙草)07/29 上州吉井谷不動尊

梅雨明けしました。(^-^) 朝日新聞ディジタル:関東甲信・東海で梅雨明け さっそく真夏日が続きそう

巻第七 花に寄す

1360いきに思へるわれを やまぢさの花にか君がうつろひぬらむ

氣緒尓 念有吾乎 山治左能 花尓香公之 移奴良武

詠人不知

巻第十一 物に寄せて思を

2469やまぢさの白露しらつゆしげみ うらぶるる心も深く わが恋止まず

山萵苣 白露重 浦經 心深 吾戀不止

柿本朝臣人麻呂之歌集出

 滝に六地蔵尊 07/29 上州吉井谷不動尊 滝脇の岩盤に六地蔵尊が刻まれてますが着生している岩煙草イワタバコで見えんばい

まず、7月29日から5枚。で、万葉歌の山ぢさを岩煙草とする声が大きいかと… 山ヂサ新考「植物記」牧野富太郎から抜粋・引用しときます (°-°;

…第一の歌には「山ぢさの花にか君が移ろひぬらむ」とある。今これをエゴノキ科のチサノキ(エゴノキ)の花だとすると、元来これらの樹の花は純白色であるので、「移ろひぬらむ」が一向に利かない。もしこれらの花色が紫か藍でもであったら、それは移ろう色、すなわち変り易い色、褪め易い色であるから「移ろひ」がよく利く…

青空文庫 牧野富太郎「植物記」XML版をリンクしておきます。(^-^)