食糧調達して戻ったら庚申山に月が下りてました。昨日なら上弦の月でした (´ー`)
明日の日の出は 5:43、日の入りは 17:58 とか。そろそろ「さくら」を撮りださんとな…
今日は「春分 2008」から3投稿しました。全部 03/30 のパチリです。
エイザンx???、思い出のハナネコノメ、土筆に野路菫に仙洞草 (^-^)
食糧調達して戻ったら庚申山に月が下りてました。昨日なら上弦の月でした (´ー`)
明日の日の出は 5:43、日の入りは 17:58 とか。そろそろ「さくら」を撮りださんとな…
今日は「春分 2008」から3投稿しました。全部 03/30 のパチリです。
エイザンx???、思い出のハナネコノメ、土筆に野路菫に仙洞草 (^-^)
飯塚の里
月の輪の渡しを越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。飯塚の里鯖野と聞きて尋ねたづね行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ、庄司が旧館なり。麓に大手の跡など、人の教ふるにまかせて涙を落とし、またかたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも、ふたりの嫁がしるし、まづあはれなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶が笈をとどめて什物とす。
笈も太刀も五月飾れ帋幟
五月朔日のことにや。
その夜、飯塚に泊まる。温泉あれば湯に入りて宿を借るに、土坐に筵を敷きて、あやしき貧家なり。灯もなければ、囲炉裏の火かげに寝所を設けて臥す。夜に入りて雷鳴り、雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊にせせられて眠らず、持病さへおこりて、消え入るばかりになん。短夜の空もやうやう明くれば、また旅立ちぬ。なほ夜のなごり、心進まず。馬借りて桑折の駅に出づる。遥かなる行末をかかへて、かかる病おぼつかなしといへど、羇旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、これ天の命なりと、気力いささかとり直し、道縦横に踏んで伊達の大木戸を越す。
笠島
鐙摺・白石の城を過ぎ、笠島の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人に問へば「これより遥か右に見ゆる山際の里を、蓑輪・笠島といひ、道祖神の社・形見の薄今にあり」と教ふ。このごろの五月雨に道いとあしく、身疲れはべれば、よそながら眺めやりて過ぐるに、蓑輪・笠島も五月雨のをりに触れたりと、
笠島はいづこ五月のぬかり道
武隈の松
岩沼宿
武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木に分かれて、昔の姿失はずと知らる。まづ能因法師思ひ出づ。往昔、陸奥守にて下りし人、この木を伐りて、名取川の橋杭にせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とは詠みたり。代々、あるは伐り、あるひは植ゑ継ぎなどせしと聞くに、今はた、千歳の形ととのひて、めでたき松の気色になんはべりし。
武隈の松見せ申せ遅桜
と、挙白といふ者の餞別したりければ、
桜より松は二木を三月越し
宮城野
名取川を渡つて仙台に入る。あやめふく日なり。旅宿を求めて四五日逗留す。ここに画工加右衛門といふ者あり。いささか心ある者と聞きて知る人になる。この者、「年ごろ定かならぬ名どころを考へ置きはべれば」とて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるる。玉田・横野、躑躅が岡はあせび咲くころなり。日影も漏らぬ松の林に入りて、ここを木の下といふとぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝みて、その日は暮れぬ。なお、松島・塩竃の所々、画に書きて贈る。かつ、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ、風流のしれ者、ここに至りてその実を顕す。
あやめ草足に結ばん草鞋の緒
かの画図にまかせてたどり行けば、奥の細道の山際に、十符の菅あり。今も年々十符の菅菰を調へて国守に献ずといへり。
今夕です。如月三日の月をパチってきました。啓蟄になっての初パチリです。しかし15日は末候「菜虫化蝶」だし、あさって17日は彼岸の入り、20日はもう二十四節気の春分です。と、分ってはいるんだけど、世相を鑑みると野を歩く気になれなくて… (ρ_;)
万葉集 巻第十九 二十三日、興に依りて作る歌二首
4290春の野に霞たなびき うら悲し この夕かげに鴬鳴くも
4291わが宿のい笹群竹 吹く風の音のかそけきこの夕かも
二十五日、作る歌
4292うらうらに照れる春日に雲雀あがり こころ悲しも 一人し思へば
春日遅々鶬鶊正啼 悽惆之意非歌難撥耳
仍作此歌式展締緒 但此巻中不稱
作者名字徒録年月所處縁起者
皆大伴宿祢家持裁作歌詞也
春日遅遅にして、鶬鶊正に啼く。悽惆の意、歌に非ずは撥ひ難し。よりて此の歌を作り、もちて締緒を展ぶ。但し此の巻中、作者の名字を称はず、ただ年月・所処・縁起のみを録せるは、皆大伴宿禰家持の裁作れる歌詞なり。
「立春 2020」、「立春 2019」とブログしました。「立春 2021」も、と思ったんだけど2月3日はパチリなしでした。7日がいちばん近くて、本郷で菜の花とアオサギ、保美へ移動して実梅を何枚か撮ってます。ほんで、タグクラウドの "立春" タップで3記事ともでるとさ (°-°;
3.11 あれから十年経ちました。ウィキペディア「東日本大震災」 でか過ぎだよ↓ひとつだけ
ネット界もドタバタ …NHKの映像がUstreamで勝手に流されている… (。_゜) ? SoftBank 発です
神いくさ『日本の伝説』 柳田国男
日本一の富士の山でも、昔は方々に競争者がありました。人が自分々々の土地の山を、あまりに熱心に愛する為に、山も競争せずにはいられなかったのかと思われます。古いところでは、常陸の筑波山が、低いけれども富士よりも好い山だといって、そのいわれを語り伝えておりました。大昔御祖神が国々をお巡りなされて、日の暮れに富士に行って一夜の宿をお求めなされた時に、今日は新嘗の祭りで家中が物忌みをしていますから、お宿は出来ませぬといって断りました。筑波の方ではそれと反対に、今夜は新嘗ですけれども構いません。さあさあお泊り下さいとたいそうな御馳走をしました。神様は非常に御喜びで、この山永く栄え人常に来り遊び、飲食歌舞絶ゆる時もないようにと、めでたい多くの祝い言を、歌に詠んで下されました。筑波が春も秋も青々と茂って、男女の楽しい山となったのはその為で、富士が雪ばかり多く、登る人も少く、いつも食物に不自由をするのは、新嘗の前の晩に大切なお客様を、帰してしまった罰だといっておりますが、これは疑いもなく筑波の山で、楽しく遊んでいた人ばかりが、語り伝えていた昔話なのであります。「常陸国風土記。茨城県筑波郡」
富士と浅間山が煙りくらべをしたという話も、ずいぶん古くからあった様ですが、それはもう残っておりません。不思議なことには富士の山で祀る神を、以前から浅間大神と称えておりました。富士の競争者の筑波山の頂上にも、どういうわけでか浅間様が祀ってあります。それから伊豆半島の南の端、雲見の御嶽山にも浅間の社というのがありまして、この山も富士と非常に仲が悪いという話でありました。いつの頃からいい始めたものか、富士山の神は木花開耶媛、この山の神はその御姉の磐長媛で、姉神は姿が醜かった故に神様でもやはり御嫉みが深く、それでこの山に登って富士のうわさをすることが、出来なかったというのであります。「伊豆志其他。静岡県賀茂郡岩科村雲見」
ところがこれから僅二里あまり離れて、下田の町の後には、下田富士という小山があって、それは駿河の富士の妹神だといっております。そうして姉様よりも更に美しかったので、顔を見合せるのが厭で、間に天城山を屏風のようにお立てになった。それだから奥伊豆はどこからも富士山が見えず、また美人が生れないと、土地の人はいうそうであります。おおかたもと一つの話が、後にこういう風に変って来たものだろうと思います。「郷土研究一編。同県同郡下田町」
越中舟倉山の神は姉倉媛といって、もと能登の石動山の伊須流伎彦の奥方であったそうです。その伊須流伎彦が後に能登の杣木山の神、能登媛を妻になされたので、二つの山の間に嫉妬の争いがあったと申します。布倉山の布倉媛は姉倉媛に加勢し、甲山の加夫刀彦は能登媛を援けて、大きな神戦となったのを、国中の神々が集って仲裁をなされたと伝えております。一説には毎年十月十二日の祭りの日には、舟倉と石動山と石合戦があり、舟倉の権現が礫を打ちたもう故に、この山の麓の野には小石がないのだともいっておりました。「肯構泉達録等。富山県上新川郡船崎村舟倉」
これと反対に、阿波の岩倉山は岩の多い山でありました。それは大昔この国の大滝山と、高越山との間に戦争があった時、双方から投げた石がここに落ちたからといっております。そうして今でもこの二つの山に石が少いのは、互にわが山の石を投げ尽したからだということであります。「美馬郡郷土誌。徳島県美馬郡岩倉村」
それよりも更に有名な一つの伝説は、野州の日光山と上州の赤城山との神戦でありました。古い二荒神社の記録に、くわしくその合戦のあり様が書いてありますが、赤城山はむかでの形を現して雲に乗って攻めて来ると、日光の神は大蛇になって出でてたたかったということであります。そうして大蛇はむかでにはかなわぬので、日光の方が負けそうになっていた時に、猿丸太夫という弓の上手な青年があって、神に頼まれて加勢をして、しまいに赤城の神をおい退けた。その戦をした広野を戦場が原といい、血は流れて赤沼となったともいっております。誰が聞いても、ほんとうとは思われない話ですが、以前は日光の方ではこれを信じていたと見えて、後世になるまで、毎年正月の四日の日に、武射祭りと称して神主が山に登り赤城山の方に向って矢を射放つ儀式がありました。その矢が赤城山に届いて明神の社の扉に立つと、氏子たちは矢抜きの餅というのを供えて、扉の矢を抜いてお祭りをするそうだなどといっておりましたが、果してそのようなことがあったものかどうか。赤城の方の話はまだわかりません。「二荒山神伝。日光山名跡志等」
しかし少くとも赤城山の周囲においても、この山が日光と仲が悪かったこと、それから大昔神戦があって、赤城山が負けて怪我をなされたことなどをいい伝えております。利根郡老神の温泉なども、今では老神という字を書いていますが、もとは赤城の神が合戦に負けて、逃げてここまで来られた故に、追神ということになったともいいました。「上野志。群馬県利根郡東村老神」
それからまた赤城明神の氏子だけは、決して日光には詣らなかったそうであります。赤城の人が登って来ると必ず山が荒れると、日光ではいっておりました。東京でも牛込はもと上州の人の開いた土地で、そこには赤城山の神を祀った古くからの赤城神社がありました。この牛込には徳川氏の武士が多くその近くに住んで、赤城様の氏子になっていましたが、この人たちは日光に詣ることが出来なかったそうであります。もし何か役目があって、ぜひ行かなければならぬ時には、その前に氏神に理由を告げて、その間だけは氏子を離れ、築土の八幡だの市谷の八幡だのの、仮の氏子になってから出かけたということであります。「十方庵遊歴雑記」
奥州津軽の岩木山の神様は、丹後国の人が非常にお嫌いだということで、知らずに来た場合でも必ず災がありました。昔は海が荒れたり悪い陽気の続く時には、もしや丹後の者が入り込んではいないかと、宿屋や港の船を片端からしらべたそうであります。これはこの山の神がまだ人間の美しいお姫様であった頃に、丹後の由良という所でひどいめにあったことがあったから、そのお怒が深いのだといっておりました。「東遊雑記その他」
信州松本の深志の天神様の氏子たちは、島内村の人と縁組みをすることを避けました。それは天神は菅原道真であり、島内村の氏神武の宮は、その競争者の藤原時平を祀っているからだということで、嫁婿ばかりでなく、奉公に来た者でも、この村の者は永らくいることが出来なかったそうであります。「郷土研究二編。長野県東筑摩郡島内村」
時平を神に祀ったというお社は、また下野の古江村にもありました。これも隣りの黒袴という村に、菅公を祀った鎮守の社があって、前からその村と仲が悪かったゆえに、こういう想像をしたのではないかと思います。この二つの村では、男女の縁を結ぶと、必ず末がよくないといっていたのみならず。古江の方では庭に梅の木を植えず、また襖屏風の絵に梅を描かせず、衣服の紋様にも染めなかったということであります。「安蘇史。栃木県安蘇郡犬伏町黒袴」
下総の酒々井大和田というあたりでも、よほど広い区域にわたって、もとは一箇所も天満宮を祀っていませんでした。その理由は鎮守の社が藤原時平で、天神の敵であるからだといいましたが、どうして時平大臣を祀るようになったかは、まだ説明せられてはおりません。「津村氏譚海。千葉県印旛郡酒々井町」
丹波の黒岡という村は、もと時平公の領分であって、そこには時平屋敷があり、その子孫の者が住んでいたことがあるといっていました。それはたしかな話でもなかったようですが、この村でも天神を祀ることが出来ず、たまたま画像をもって来る者があると、必ず旋風が起ってその画像を空に巻き上げ、どこへか行ってしまうといい伝えておりました。「広益俗説弁遺篇。兵庫県多紀郡城北村」
何か昔から、天神様を祀ることの出来ないわけがあって、それがもう不明になっているのであります。それだから村に社があれば藤原時平のように、生前菅原道真と仲が悪かった人の、社であるように想像したものかと思います。鳥取市の近くにも天神を祀らぬ村がありましたが、そこには一つの古塚があって、それを時平公の墓だといっておりました。こんな所に墓があるはずはないから、やはり後になって誰かが考え出したのであります。「遠碧軒記。鳥取県岩美郡」
しかし天神と仲が善くないといった社は他にもありました。例えば京都では伏見の稲荷は、北野の天神と仲が悪く、北野に参ったと同じ日に、稲荷の社に参詣してはならぬといっていたそうであります。その理由として説明せられていたのは、今聞くとおかしいような昔話でありました。昔は三十番神といって京の周囲の神々が、毎月日をきめて禁中の守護をしておられた。菅原道真の霊が雷になって、御所の近くに来てあばれた日は、ちょうど稲荷大明神が当番であって、雲に乗って現れてこれを防ぎ、十分にその威力を振わせなかった。それゆえに神に祀られて後まで、まだ北野の天神は稲荷社に対して、怒っていられるのだというのでありますが、これももちろん後の人がいい始めたことに相違ありません。「渓嵐拾葉集。載恩記等」
或はまた天神様と御大師様とは、仲が悪いという話もありました。大師の縁日に雨が降れば、天神の祀りの日は天気がよい。二十一日がもし晴天ならば、二十五日は必ず雨天で、どちらかに勝ち負けがあるということを、京でも他の田舎でもよくいっております。東京では虎の門の金毘羅様と、蠣殻町の水天宮様とが競争者で、一方の縁日がお天気なら他の一方は大抵雨が降るといいますが、たといそんなはずはなくても、なんだかそういう気がするのは、多分は隣り同士の二箇所の社が、互に相手にかまわずには、独で繁昌することが出来ぬように、考えられていた結果であろうと思います。
だから昔の人は氏神といって、殊に自分の土地の神様を大切にしておりました。人がだんだん遠く離れたところまで、お参りをするようになっても、信心をする神仏は土地によって定まり、どこへ行って拝んでもよいというわけには行かなかったようであります。同じ一つの神様であっても、一方では栄え他の一方では衰えることがあったのは、つまりは拝む人たちの競争であります。京都では鞍馬の毘沙門様へ参る路に、今一つ野中村の毘沙門堂があって、もとはこれを福惜しみの毘沙門などといっておりました。せっかく鞍馬に詣って授かって来た福を、惜しんで奪い返されるといって、鞍馬参詣の人はこの堂を拝まぬのみか、わざと避けて東の方の脇路を通るようにしていたといいます。同じ福の神でも祀ってある場所がちがうと、もう両方へ詣ることは出来なかったのを見ると、仲の善くないのは神様ではなくて、やはり山と山との背競べのように、土地を愛する人たちの負け嫌いが元でありました。松尾のお社なども境内に熊野石があって、ここに熊野の神様がお降りなされたという話があり、以前はそのお祭りをしていたかと思うにも拘らず、ここの氏子は紀州の熊野へ参ってはならぬということになっていました。それから熊野の人もけっして松尾へは参って来なかったそうで、このいましめを破ると必ずたたりがありました。これなども多分双方の信仰が似ていたために、かえって二心を憎まれることになったものであろうと思います。「都名所図会拾遺。日次記事」
どうして神様に仲が悪いというような話があり、お参りすればたたりを受けるという者が出来たのか。それがだんだんわからなくなって、人は歴史をもってその理由を説明しようとするようになりました。例えば横山という苗字の人は、常陸の金砂山に登ることが出来ない。それは昔佐竹氏の先祖がこの山に籠城していた時に、武蔵の横山党の人たちが攻めて来て、城の主が没落することになったからだといっていますが、この時に鎌倉将軍の命をうけて、従軍した武士はたくさんありました。横山氏ばかりがいつまでもにくまれるわけはないから、これには何か他の原因があったのであります。「楓軒雑記。茨城県久慈郡金砂村」
東京では神田明神のお祭りに、佐野氏の者が出て来ると必ずわざわいがあったといいました。神田明神では平将門の霊を祀り、佐野はその将門を攻めほろぼした俵藤太秀郷の後裔だからというのであります。下総成田の不動様は、秀郷の守り仏であったという話でありますが、東京の近くの柏木という村の者は、けっして成田には参詣しなかったそうであります。それは柏木の氏神鎧大明神が、やはり平将門の鎧を御神体としているといういい伝えがあったからであります。「共古日録。東京府豊多摩郡淀橋町柏木」
信州では諏訪の附近に、守屋という苗字の家がたくさんにありますが、この家の者は善光寺にお詣りしてはいけないといっておりました。強いて参詣すると災難があるなどともいいました。それはこの家が物部守屋連の子孫であって、善光寺の御本尊を難波堀江に流し捨てさせた発頭人だからというのでありますが、これも恐らくは後になって想像したことで、守屋氏はもと諏訪の明神に仕えていた家であるゆえに、他の神仏を信心しなかったまでであろうと思います。「松屋筆記五十。長野県長野市」
天神のお社と競争した隣りの村の氏神を、藤原時平を祀るといったのは妙な間違いですが、これとよく似た例はまた山々の背くらべの話にもありました。富士と仲の悪い伊豆の雲見の山の神を、磐長媛であろうという人があると、一方富士の方ではその御妹の、木花開耶媛を祀るということになりました。どちらが早くいい始めたかはわかりませんが、とにかくにこの二人の姫神は姉妹で、一方は美しく一方はみにくく、嫉みからお争いがあったように、古い歴史には書いてあるので、こういう想像が起ったのであります。伊勢と大和の国境の高見山という高い山は、吉野川の川下の方から見ると、多武峰という山と背くらべをしているように見えますが、その多武峰には昔から、藤原鎌足を祀っておりますゆえに、高見山の方には蘇我入鹿が祀ってあるというようになりました。入鹿をこのような山の中に、祀って置くはずはないのですが、この山に登る人たちは多武峰の話をすることが出来なかったばかりでなく、鎌足のことを思い出すからといって、鎌を持って登ることさえもいましめられておりました。そのいましめを破って鎌を持って行くと、必ず怪我をするといい、または山鳴りがするといっておりました。「即事考。奈良県吉野郡高見村」
この高見山の麓を通って、伊勢の方へ越えて行く峠路の脇に、二丈もあるかと思う大岩が一つありますが、土地の人の話では、昔この山が多武峰と喧嘩をして負けた時に、山の頭が飛んでここに落ちたのだといっております。そうして見ると蘇我入鹿を祀るよりも前から、もう山と山との争いはあったので、その争いに負けた方の山の頭が、飛んだという点も羽後の飛島、或は常陸の石那阪の山の岩などと、同様であったのであります。どうしてこんな伝説がそこにもここにもあるのか。そのわけはまだくわしく説明することが出来ませんが、ことによると負けるには負けたけれども、それは武蔵坊弁慶が牛若丸だけに降参したようなもので、負けた方も決して平凡な山ではなかったと、考えていた人が多かった為かも知れません。ともかくも山と山との背くらべは、いつでも至って際どい勝ち負けでありました。それだから人は二等になった山をも軽蔑しなかったのであります。日向の飯野郷というところでは、高さ五尋ほどの岩が野原の真中にあって、それを立石権現と名づけて拝んでおりました。そこから遠くに見える狗留孫山の絶頂に、卒都婆石、観音石という二つの大岩が並んでいて、昔はその高さが二つ全く同じであったのが、後に観音石の頸が折れて、神力をもって飛んでこの野に来て立った。それ故に今では低くなりましたけれども、人はかえってこの観音石の頭を拝んでいるのであります。「三国名所図会。宮崎県西諸県郡飯野村原田」
肥後の山鹿では下宮の彦嶽権現の山と、蒲生の不動岩とは兄弟であったといっております。権現は継子で母が大豆ばかり食べさせ、不動は実子だから小豆を食べさせていました。後にこの兄弟の山が綱を首に掛けて首引きをした時に、権現山は大豆を食べていたので力が強く、小豆で養われた不動岩は負けてしまって、首をひき切られて久原という村にその首が落ちたといって、今でもそこには首岩という岩が立っています。揺ぎ嶽という岩はそのまん中に立っていて、首ひきの綱に引っ掛かってゆるいだから揺嶽、山に二筋のくぼんだところがあって、そこだけ草木の生えないのを、綱ですられた痕だといい、小豆ばかり食べていたという不動の首岩の近くでは、今でもそのために土の色が赤いのだというそうであります。「肥後国志等。熊本県鹿本郡三玉村」
昨夜です。朧月を観てたらなぜか心がおだやかに… 序と長歌、短歌をどう配置するか… 悪戦苦闘したけど、どうにか形になったとさ。あっ、横スクロール版です (^-^)
筑前守だった神亀五年七月二十一日に嘉摩郡で撰定されたようです。金井沢碑は神亀三年、長屋王の変は神亀六年…
体感する万葉集/上野誠
巻第五 802、803 子等を思ふ歌 序を併せたり
序
釋迦如来金口正説 等思衆生如羅睺羅 又説愛無過子 至極大聖尚有愛子之心 況乎世間蒼生誰不愛子乎
釈迦如来、金口に正に説きたまはく、等しく衆生を思ふこと、羅睺羅の如しとのたまへり。又説きたまはく、愛は子に過ぎたりといふこと無しとのたまへり。至極の大聖すら、尚し子を愛しぶる心あり。況むや世間の蒼生、誰か子を愛しびざらめや
お釈迦さまがその尊い口で正しくお説きになったことには、「平等に衆生を思うことは、わが子羅睺羅を思うのとおなじだ」と。またお説きになったことには、「愛は子に優るものはない」と。こんな無上の大聖人でさえ、やはり子を愛する心があるのだ。ましてこの世間一般の人々で誰が子を愛さずにおられようか
長 歌
宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆
麻斯提斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽
麻奈迦比尓 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農
瓜食めば 子ども思ほゆ
栗食めば まして偲はゆ
何処より 来りしものぞ
眼交に もとなかかりて
安眠し寝さぬ
瓜を食べると子供のことが思われる。栗を食べると、いっそう子供が偲ばれることだ。いったい子供というものはどこから来たものであろうか。こうしていても目の前にしきりにちらついて、私に安眠させないことよ
返 歌
銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良
古尓斯迦米夜母
銀も金も玉も
何せむに優れる宝
子に及かめやも
銀も金も玉も、どうして優れた宝であろうか…
子に及ぶ宝があろうか
もう、2年前です。さるお方から、タナオスミレが咲いてるよ、とメールが届きました。菜の花便りを聞いた途端、集うことはまかりならん! お花畑はつぶしたよ… ふんなこんなで新生活様式とやらの古典的暮らしぶりを強制され鬱々と過ごしていました。そこに咲いてるよメール。もう立夏でしたが御荷鉾山なら人の群れができん、と出かけたんさ…
1枚目はタナオスミレの隣で咲いていた斑入麓菫です。いま見てたらタナオスミレぽく見えてきちゃって… が、まぁ、花の感じと葉の切れ込み具合などから斑入麓菫でよいかなと…
あと、ここにはフイリタナオスミレもいました。パチってあります。機会があればあげるけど… 斑があると思えば「斑入り」をつければそれでよし… (°-°;
この日のフォルダは曙菫で始まり、小哨吶草で終わってます。だで、三波川から夜沢、御荷鉾山と走ったかと… 自然交雑の種生菫です。園芸のヒゴスミレじゃなくて野の肥後菫が片親です。盗み採られちゃうかもしれません。御荷鉾の何処かはふせとくだよ。去年は行かなかったけど、野でしたたかに生きているお方たちです。あの台風をやり過ごして生き延びたかもしれません。今季は逢いに行ってみるかな… (^-^)