天平十一年六月 大伴家持 死んだ妾を悼んで作った歌
462 今よりは秋風さむく吹きなむを、如何にか、獨り長き夜を寝む
これからは、秋の風が冷たく吹いてくるだらうのに、只獨り何うして、寝ようか。
弟の大伴書持が、それに和せた歌
463 長き夜を獨りか寝むと君が言へば、過ぎにし人のおもほゆらくに
秋の長い夜を獨り寝なければならぬか、とあなたが仰つしやるにつけて、亡くなつた人が、思はれる事です。「唯 死んだ人も、淋しく思うてゐるでせう。」
其後、家持 雨落ち石の邊に咲いてゐる撫子の花を見て作った歌
464 秋さらば見つゝ偲べと妹が植ゑし、宿の撫子咲きにけるかも
秋が来たら、これを見て大事に可愛がって下さい、といとしい人が植ゑて置いた、屋敷内の撫子が咲いた事だ。「それが、今では、ほんとにかたみになつてしまうた。」
七月朔日になって、秋風の吹くのを悲しんで、家持が作った歌
465 現身の世は、常なしと知るものを。秋風さむみ、偲びつるかも
人間の世間は何物もぢつとしてゐない、不變なものでない、と云う事は、訣つてゐるのだが、秋風の冷たさに、死んだ人の事を思い出して焦れる事だ。
復、家持の作つた歌。並びに短歌。三首
466 我が宿に花ぞ咲きたる。其を見れど、心もゆかす。はしきやし妹がありせば水鴨なす二人竝び居、手折りても見せましものを。現身の假れる身なれば、露霜の消ぬるが如く、足引きの山路を指して、入日なす隠りにしかば、其思ふに胸こそ痛め。言ひも得に名づけも知らに、跡もなき世の中なれば、せむ術もなし
自分の屋敷内に花が咲いた。それを見てゐるが心も晴れない。可愛いあの人が生きて居たなら、水に住む鴨の様に、二人竝んで居て、其花を折つて見せようものを。人間の肉身と云うものは、ほんの假りの身體であるから、秋の末の水霜が消えてしまう様に、墓場のある山の方へ向いて行つて、まるで入り口の様に隠れてしまうたので、其事を思ふと、胸が痛くなる。言ひ表はさうと思うても、言ふ事も出来ず、名状するにも、名状する事が出来ない程、何の痕跡も残らない、はかない世の中であるから、何とも爲方がない
反歌
467 時はしも何時もあらなむを。心 憂くい行く吾妹か。若兒を置きて
死なうと思へば、何も今に限つた事はないのに、悲しくも、可愛い子どもをうつちやつておいて、逝つて了うた人である事よ。
468 出でゝ行く道知らませば、あらかじめ妹を止めむ關もおかましを
いとしい人の出向いていく道が訣つてゐたら、前々からその人を引き止める關所でも据ゑて置いたのに。
469 妹が見し宿に、花咲き、時は經ぬ。我が泣く涙 未だ干なくに
死んだいとしい人が眺めてゐた、自分の屋敷内に花は咲いて、あゝ死んで後、時が經つた。自分の泣いて、こぼす涙は、未だ干かないでゐる。
其後、未だ悲しみの心が止まなかったので作った歌。五首
470 かくのみにありけるものを。妹も我も、千年の如く憑みたりけり
僅かこればかりの果敢ない命であったのに、あの人も、自分も、千年もいきてゐるものゝ様に信じてゐた事だ。
471 家 離りいます吾妹を、止めえに山 籠りつれ、心どもなし
家を遠のいてお行きになる、いとしい人よ。自分が止める事の出来なかった爲に、山の中に籠つて、出て入らつしやらないので、元氣もなくなつた。
472 世の中し常かくのみと、かつ知れど、痛き心は忍びかねつも
人間世界は、何時もかう云ふ風になるに、きまつてゐるとは、うすく知つてゐるが、其でもつらい心は、辛抱しかねる事だ。
473 佐保山にたなびく霞、見る毎に妹を思ひ出で、泣かぬ日はなし
佐保山にかゝつてゐる霞、それを見る度毎に、其處に埋めてあるいとしい人を思い出して、泣かない日はない。
474 昔こそ餘所にも見しか。吾妹子が奥つ城と思ヘば、愛しき佐保山
以前は何とも思はず、餘處の様に思うて眺めてゐた事だつた。併し今では、其處が可愛い人の墓場だと思ふと、懐かしい佐保山よ。
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