季節頼みの「新生活様式」とやらを続けていてパチリもままならんばい。ふんなで文化の日(2019.11.03)にパチってきた金井沢碑をひっぱりだして暇つぶしに読んでみたと (^-^)
ウィキペディア「金井沢碑」に、江戸時代の中ごろに出土しかつては小川のほとりで付近の農家の洗濯板として使用されていた、とあります。だで磨滅しちゃってて読めん文字もあるんさ。あと、家刀自を中心に系図っぽいのも書いといたと
上野國羣馬郡下賛郷髙田里
三家子⬜為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又兒加
那刀自孫物部君午足次刀自次乙
刀自合六口又知識所結人三家毛人
次知万呂鍛師礒マ君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月廿九日
三家子⬜
├─────加那刀自┌物部君午足
他田君目頬刀自 ├──┼刀自
物部君 └乙刀自
三家毛人
三家知万呂
鍛師礒マ君身麻呂
まず、熊倉浩靖『古典としての上野三碑』から、金井沢碑について述べてるところを… (°-°;
羣は群の正字で、群馬県紋章もこの字体である。は他に見られない文字だが、馬偏に爪なので、伝統的に「ひづめ」と読まれている。マは「部」の略体で「ア」「卩」「阝」と書かれる場合もあり、遅くとも6世紀代の朝鮮半島諸国で使われ始め日本列島でも一般化した。三家は山上碑の佐野三家に繋がる氏族名と見られる。子⬜は碑を建てた中心人物の名だが、残念なことに摩滅が激しく、文字を確定することができない。他田君、乙、も摩滅が激しく、他の読みの可能性も指摘されている。
碑文は、碑文作者の所在地ないし戸籍と碑文作成の対象を記す第1・第2行は、碑文作成に賛同・参加した者とその関係を記す。第3~第6行は碑文作成の目的と碑文としたことの確認。碑文作成の年月日を記す第7~第9行の3部構成となっており、『日本書紀』や『万葉集』などの古訓を参照すれば、おおむね以下のように読むことができる。
【第1・第2行】上野國羣馬郡下賛郷髙田里の三家子⬜は、七世の父母、現在の父母の為に、
【第3~第6行】現在侍る家刀自(=家を取り仕切る主婦、正妻/やか刀自)、他田君目頬刀自、又、兒の加那刀自、孫の物部君午足、次の(孫の)刀自、次(孫の)乙刀自との合せて六口、又、知識に所結人、三家毛人、次の(三家)知万呂、鍛師礒マ君身麻呂の合せて三口、
【第7~第9行】如是知識を結而、天地に誓願ひ仕奉る石文。神亀三年(=726年)丙寅二月廿九日
要は、三家子⬜が、ご先祖さまのために、嫡系親族6名を核に、傍系親族など3名の協力を得て「知識を結んだ」石文ということだが、「知識を結ぶ」という表現に、先祖供養を超えての決意・行動が伺える。「知識を結ぶ」という表現は金井沢碑が初出だが、もともとは仏教信者を意味する「知識」という表現から進んで、人々を組織して、ことに当たる意味となっている。金井沢碑では鮮明ではないが、金井沢碑建立の翌年、和泉の地で行基菩薩が2000名もの人々を知識に合わせて土塔を築き弱者救済や公共事業に当っていることは、金井沢碑の思想性を推測させる。
碑文の「神亀三年丙寅二月廿九日」はユリウス暦726年4月6日。ウィキペディア「神亀」を… (^-^)
神亀(じんき、しんき、旧字体:神󠄀龜)は、日本の元号の一つ。養老の後、天平の前。724年から729年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇
神亀元年(724年)蝦夷反乱する。藤原宇合を持節大将軍に任ずる。陸奥国に多賀城を設置
神亀4年 (727年)渤海使が初めて来日
神亀6年 (729年)2月12日:長屋王が反乱の疑いにより宅に兵を囲まれ自害(長屋王の変)
3月:口分田を悉く収納して班田する
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