難波津の歌は源氏物語に手習い歌で引用。難波津に咲くやこの花冬籠り今は春べと咲くやこの花
万葉集巻第十六 由縁ある雑歌
葛城王、陸奥に発ちしとき祇承緩怠なり。王の意に悦びたまはざりしときに前の采女觴を捧げて詠む歌一首
3807安積山影さへ見ゆる山の井の
浅き心を吾が思はなくに
葛城王が陸奥国に派遣せられたとき、国司の王を接待する方法がひどく不備だったので、王が怒って折角の御馳走にも手をつけない。その時、嘗て采女をつとめたことのある女が侍していて、左手に杯を捧げ右手に水を盛った瓶子を持ち、王の膝をたたいて此歌を吟誦したので、王の怒が解けて、楽飲すること終日であった、という伝説ある歌である。葛城王は、天武天皇の御代に一人居るし、また橘諸兄が皇族であった時の御名は葛城王であったから、そのいずれとも不明であるが、時代からいえば天武天皇の御代の方に傾くだろう。併し伝説であるから実は誰であってもかまわぬのである。また、「前の采女」という女も、嘗て采女として仕えたという女で、必ずしも陸奥出身の女とする必要もないわけである。「安積山」は陸奥国安積郡、今の福島県安積郡日和田町の東方に安積山という小山がある。其処だろうと云われている。木立などが美しく映っている広く浅い山の泉の趣で、上の句は序詞である。そして「山の井の」から「浅き心」に連接せしめている。「浅き心を吾が思はなくに」が一首の眼目で、あなたをば深く思いつめて居ります、という恋愛歌である。そこで葛城王の場合には、あなたを粗略にはおもいませぬというに帰着するが、此歌はその女の即吟か、或は民謡として伝わっているのを吟誦したものか、いずれとも受取れるが、遊行女婦は作歌することが一つの款待方法であったのだから、このくらいのものは作り得たと解釈していいだろうか。この一首の言伝えが面白いので選んで置いたが、地方に出張する中央官人と、地方官と、遊行女婦とを配した短篇のような趣があって面白い歌である。伝説の文の、「右手持レ水、撃二之王膝一」につき、種々の疑問を起しているが、二つの間に休止があるので、水を持った右手で王の膝をたたくのではなかろう。「之」は助詞である。
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