青空文庫テキスト:万葉歌の山ヂサ新考『植物記』牧野富太郎。縦書き、横スクロール (^-^)
『万葉集』巻七 1360 に左の歌がある。
氣緒尓 念有吾乎 山治左能 花尓香公之 移奴良武
また、同じ巻十一 2469 には次の歌がある。
山萵苣 白露重 浦經 心深 吾戀不止
右二首の歌に在る山治左ならびに山萵苣すなわちヤマヂサという植物につき、まず仙覚律師の『万葉集註釈』すなわちいわゆる『仙覚抄』の解釈を見ると
山チサトハ木也田舎人ツサキトイフコレ也
とある。このツサキはズサノキかあるいはチサノキかならんと思う。もしそれがズサノキであればこれはエゴノキ科のチサノキ(すなわちエゴノキ)を指し、もしそれがチサノキなれば同じくエゴノキのチサノキかあるいはムラサキ科のチサノキかを指しているならん。しかしクスノキ科のアブラチャンにもズサならびにヂシャの名があるから考え様によってはこの植物ではなかろうかとも想像の出来ん事はない。
釈契沖の『万葉代匠記』には
山チサは今もちさのきと云物なり。和名集〔牧野いう、集は抄〕云、本草云、売子木(和名賀波知佐乃木)此も此木の事にや
と解し、また
山萵苣は木なるを此処に置は萵苣の名に依てか、例せば和名集〔牧野いう、集は抄〕に蕣を蓮類に入れたるが如し
とも述べている。
橘千蔭の『万葉集|略解《りゃくげ》』には
山ちさといふは木にて其葉彼ちさに似たれば山ちさといふならむ、此木花は梨の如くて秋咲りとぞ豊後の人の言へる是なり、又和名抄本草云、売子木(賀波知佐乃木)字鏡売子木(河知左)と有りこれも相似たるものなるべし
と解釈している。
『万葉集目安補正』には
山治左 売子木といへど花の色違へり斉墩と云物当れりといへり
と記してある。この時代では斉墩をチサノキすなわちエゴノキであると信じていたからこの書の斉墩はエゴノキを指したものである。
また売子木を『倭名類聚鈔』すなわち所謂『和名抄』に和名賀波知佐乃木(カワヂサノキ)とあるので、これを山ヂサではないかと契沖も千蔭も書いていれど、これは無論同物ではない。上に引ける『万葉集目安補正』では売子木は山ヂサとは花色が違っていると書いて山ヂサは売子木ではないとしているのは正しいのである。元来売子木とはアカネ科に属するサンダンカ(学名 Ixora chinensis Lam.)の事で一名山丹とも称し、サンダンカはこの山丹に基きそれに花を加えてそう呼んだものである。赤色の美花を攅簇して開く(故に紅繍毬あるいは珊瑚毬の名もある)熱国の常緑灌木で我が内地には固より産しない。この売子木を『新撰字鏡《しんせんじきょう》』で河知左(カワヂサ)とし『和名抄』で賀波知佐乃木(カワヂサノキ)としたのは無論サンダンカをいったものではなく何か別の邦産植物を充ててかく称えたものだろうが、それが果して何を指したものだかその的物は今日一向に捕捉が出来ない。また現代ではカワヂサもしくはカワヂサノキと称える何んの木をも見出し得ない。
次に鹿持雅澄の『万葉集古義』には
山治左は契沖、常も〔牧野いう、活版本にかくあるが、これは「今も」なり〕ちさの木と云ものなり、十一にも山ぢさの白露おもみとよみ、十人長歌にもちさの花さけるさかりになどよめり、和名抄に本草ニ云、売子木、和名賀波知佐乃木とあるものたゞ知佐の木のことにやと云り、なほ品物解に委ク云り
と記しまた、なお
山萵苣は契沖、常に〔牧野いう、ここも「今も」でなければならない〕ちさのきといひならへるもの是なりといへり
とも記している。そして前記の「品物解」すなわち『万葉集品物解』には山治左と山萵苣とを
未ダ詳ならず仙覚抄ニ云山ちさとは木也田舎人は、つさの木といふこれなりといへり、いかゞあらむ、但し此は
松に山松、桜に山桜などいふ如く山に生たるつねの知左〔牧野いう、知左の解に拠ればムラサキ科のチサノキを指している。しかし品物図のチサの図は曖昧至極である〕を云か又一種かく云があるか云々
と述べていて、雅澄の山ヂサに対する知識の程度は「未だ詳ならず」であった。
サテ上に列記した万葉諸学者の文句で観ると、大体万葉歌の山ヂサはチサノキという樹木の名であると解している。しかしチサノキすなわちチシャノキには三種あって、単にチサノキでは実はその中の何れを指しているのかそこにその樹の解説が無い限りは、果してそれが何れであるのか明瞭では無いという事になる。
右のチサノキの三種というのは、一はエゴノキ科のチサノキ(一名チシャノキ、ズサ、ヂサ、コヤスノキ、ロクロギ、チョウメン、サボン、学名は Styrax japonica Sieb. et Zucc.であり、二はムラサキ科のチザノキ(チシャノキ、トウビワ、カキノキダマシ、学名は Ehretia thyrsiflor Nakai)であり、三はクスノキ科のヂシャ(一名ズサ、アブラチャン、コヤスノキ、フキダマノキ、ムラダチ、学名は Lindera praecox Blume)である。つまり万葉歌の山ヂサをしてこの三樹木の何れかに帰着せしめ様とせんとて、昔から現代に至る万葉学者をヤキモキさせているのである。
私の考えでは、もしも仮りに万葉歌の山ヂサを上の三種の何れかに当てはめて見るとしたならば、それはエゴノキ科のチサノキすなわちエゴノキであらねばならないであろう。何んとならばこの樹は諸州に最も普通に見られ、かつその花は白色で無数に枝から葉下に下垂して咲きその姿は頗る趣きがあって諸人の眼に着き易いからである。そしてムラサキ科のチサノキと、クスノキ科のヂシャとは何等万葉歌とは関係の無いものだと私は信ずる。何ぜならばこの二品はその花状が万葉歌とはシックリ合わないからである。このムラサキ科のチサノキは何等風情の掬すべき樹ではなく、樹は喬木で高く、葉は粗大で硬く、砕白花が高く枝梢に集って咲き観るに足る程のものではない。そしてこの樹は暖国でなくては生じていなく、内地では稀れに植えたものを除くの外は僅かに四国の南部と九州とに野生があるのみで、そう普通に見られる樹ではない。こんな無風流な姿で、かつ九州四国を除いた外は滅多に見られない樹が数首の歌に読み込まれる訳はあるまい。またクスノキ科のヂシャすなわちアブラチャンは山地に生ずる落葉灌木で砕小な黄花が春、葉のまだ出ない前に枝上に集り咲くのだが、茶人の好む花位なもので一向人の心を惹く様なものではない。『万葉集目安補正』ならびに『万葉集古義』以前の万葉学者は万葉歌の山ヂサにチサノキを充てていれど、それが何のチサノキだか判然しない憾みがあるが、しかし同書以後の万葉学者はこれにあるいはムラサキ科のチサノキを充てている学者もあれば、またエゴノキ科のチサノキ(エゴノキ)を当てている学者もある。中には勇敢にもその図まで入れそれを鼓吹している近代の書物もあって中々努めたりというべしである。が、しかし右二種のチサノキにヤマヂサという名は無い。
古往今来万葉学者が唱うる様に、万葉歌の山ヂサをあるいはエゴノキ科のチサノキ(すなわちエゴノキ)、あるいはムラサキ科のチサノキとして観た時、またあるいは畔田翠山の『古名録』に在る様に知佐木(『延喜式』)、知佐(『万葉集』)、加波知佐乃岐(『本草和名』)、賀波知佐乃木(『倭名類聚鈔』)、賀波知佐乃木(天文写本『和名抄』)、加和知佐乃支(『本草類編』)、奈佐乃支(同上)、河知左(『新撰字鏡』)、山萵苣(『万葉集』)、つさのき(仙覚『万葉集註釈』)、山治左(『万葉集』)を一切斉墩樹のチサノキ(今名)、すなわちエゴノキ限りの一種とした時、果してそれが上の二首の万葉歌とピッタリ合ってあえて不都合な事は無いかというと、私は今これをノーと返答する事に躊躇しない。以下そのしかる所以を説明する。
上に掲げた第一の歌には「山ぢさの花にか君が移ろひぬらむ」とある。今これをエゴノキ科のチサノキ(エゴノキ)あるいはムラサキ科のチサノキの花だとすると、元来これらの樹の花は純白色であるので、「移ろひぬらむ」が一向に利かない。もしこれらの花色が紫か藍でもであったら、それは移ろう色、すなわち変り易い色、褪め易い色であるから「移ろひ」がよく利く。白色には「移ろふ」色は無く、咲き初めから散り果つるまで白色で何時までたっても白花である。ゆえにこの歌の山ヂサは決して白花の発らくエゴノキ科のチサノキでもなければ、またムラサキ科のチサノキでも無いという結論に達する。
それから上の第二の歌には「白露重み」とある。それはチサノキすなわちエゴノキの下垂している花に露が宿れば無論重たげになるのは必定ではあれど、仮令いこの樹の花が露に湿うていても、これを望んで見るに一向に露を帯びている様な感じのせぬ花である。全くこれはサラサラとした花で、かつ始めから吊垂して咲いているから、仮りに露を帯びたとしても、それがために重た気に見ゆる事はない。ゆえにこの花は露を帯びていてもまた帯びていなくても一向そこに見さかいのない花である。歌には「白露重み」とあるから、もっと露を帯びたら帯びたらしい姿を呈わし、これを見る人にもそれがはっきりと判かる様でなければならない理窟ではないか。ゆえにエゴノキのチサノキを同じくこの歌に充てるのは私は不賛成であり、殊にムラサキ科のチサノキに至っては全く顧るに足らない論外者である。ウソと思えばその樹を実際に観て見るがよい。必ず成る程と感ずるのであろう。
上の二つの歌の山ヂサがエゴノキ科のチサノキ、またはムラサキ科のチサノキその品であるという旧来の説、それが今日でも万葉学者に信ぜられているその説を否定するとせば、しからばその歌の山ヂサとは果して何んな植物であって宜しかろうか。
熟ら攷るに、私はその山ヂサは樹ではなく草であって、それはイワタバコ科のイワタバコ(岩烟草)一名イワヂシャ(岩萵苣)一名タキヂシャ(崖萵苣)一名イワナ(岩菜)、そして我邦従来の学者が支那の書物の『典籍便覧』に在る苦苣苔に充てし(実は中っていないけれど)この品、すなわち Conandron ramondioides Sieb. et Zucc.)でなければならぬと鑑定する。しかし今私の知っている限りでは、まだこれにヤマヂサの方言のあるのを見ないけれど、これはこの植物に対して必ずあり得べき名であるから、試みに諸国の方言を調査して見たなら多分どこかでこれを見出す事がありはせぬかと期待している。
この植物は山地の湿った岩壁、あるいは渓流の傍の岩側面、あるいは林下の湿った岩の側面等に生じているもので、国によりこれを岩ヂシャもしくは岩崖ヂシャと称うる所を以て推せば、前にもいった様にあるいはこれを山ヂシャ(山ヂサ)と呼んでいる処がありそうに思える。山路を行く時その路傍の岩側に咲いている美麗な紫花に逢着し、行人の眼をしてこれに向けしむるのはよくある事である。これをイワタバコというのは岩に生えてその葉が烟草葉に似ているから、そう名けられたものである。
そこでこの植物、すなわちイワヂシャ一名タキヂシャのイワタバコなる草を捉え来って上の二つの万葉歌と比べて見る。
第一の歌の中の「山ぢさの花にか君が移ろひぬらむ」は、右のイワヂシャなれば何の問題もなくよくその歌の詞と合致するのを見るのである。このイワヂシャの花はその色が紫でいわゆる移ろう色であるから、君の心の変る事を言い現わすには相応しい植物である。
次に第二の歌の「白露重み」もこのイワヂシャなれば最もよい。イワヂシャは通常蔭になって湿っている岩壁に着生しその葉(大なるものは長さ一尺に余り幅も五、六寸に達する)は皆下に垂れて重たげに見え、質厚く極めて柔軟で稍脆く、かつ往々闊大でノッペリとしているので、これを見る者は誰れでも直ちに萵苣(チサ)の葉を想起せずには措かない葉状を呈わしている。陰湿な場処に在るのでその葉に露も置き易く、またその葉はボットリと下に垂れているから露に潤えば一層重たげに見え、かつ花も点頭して下向きに咲いているのでこれまた露を帯ぶれば同じく重たげに見ゆるので「白露重み」の歌詞が充分よくその実際を発揮せしめている。また歌中に山萵苣の字が用いてあるのも決して偶然ではなく、そしてここにその字を特に使用した理由もよく呑み込めるのである。
このイワヂシャすなわちイワタバコは、あえて普通の草であるとは言わんが、しかし決して稀品ではなく、往々山地ではこれに邂逅するのである。山家では家近かにこれを見る事が普通である処が往々あって、特に紫色の美花を開くので人をしてこれを認め易からしめまた覚え易からしむるのである。試みに山里の人に聴けば、ンー、その草なら内の家の裏の岩に幾らも着いていらーと言う処もあろう。すなわちこんな草なのであるから自然に歌を詠む人にその名物の材料となっても何にも別に不思議はないはずだ。
右の様な訳なのであるから、私は上の万葉歌の山治左(ヤマヂサ)もまた山萵苣(ヤマヂサ)も共にいわゆるイワタバコのイワヂシャその物である事を確信するのであるが、これは従来万葉歌人のなお未だ説破しない所であった。
しかるに私は今この稿を草する際、かの曾槃の著である『国史草木昆虫攷』の書物がある事を思い出し、早速これを書架より抽き出して繙閲して見たところ、料らずもその巻の八に左の記事のあるのを見出した。すなわち参考のため今ここにその全文を転載して見よう。
やまぢさ 万葉巻十一に、「山萵菜のしら露重く浦経る心を深くわが恋やまず」巻七に、山治佐の花にか君がうつろひぬらん、巻十八に、よの人のたつることだて知左の花、六帖に「我が如く人めまれらにおもふらし白雲ふかき山ぢさの花」或はいふ今山野の俗にチシヤノキといふものこれ成るべし、槃按に、集中に木によみたるはしるしなし、ましてチサノキの花は色白きものなればうつろひぬといへる詞によしなし、萵苣の字を借用ひたれば蓋しは草なるべし、さて武蔵国相模国山中にイハチサ一名イハナとて葉はげにも菜蔬のチサの葉に似て石転の苔むしたる所におふものあり、その葉は春のすゑにもえいで夏のきて一二茎をぬき桔梗の花に似たる小なるが七ふさ八ふさつどひて咲く也その色はむらさきなり、箱根山かまくら山などにいとおほし、このヤマヂサは応にこれにやあらんか、順抄に本草を引て売子木を賀波治佐乃木と注したり、これ山萵苣にむかへたる名なるべし
右の書物は今から百二十一年前の文政四年〔一八二一〕に出来たものであるから、この時代に既に曾槃は『万葉集』のヤマヂサはあるいはイワヂサ(すなわちイワタバコ)ではなかろうかと思っていたのであった。しかし私は全くこれを知らなかったが、今これを知って見ると曾槃は百年以上も昔に既に疾くこれに気附いていたのであった。そして今日私の観る所と全く符節を合しているのは、この説をしてますます真ならしむる上に大いに貢献する所があるといってよかろう。
前文中にエゴノキについて述べた事はあるが、なおこの樹に関してのイキサツを次に少々書いて読者の一条に供して見よう。
エゴノキには既に上に書いた通り種々な一名があるが、その中にチシャノキというのがある。しかしそれにヤマヂサという名はない。これは山に生えているチサノキだと言えば通ぜんでもないが、チサノキは何も山ばかりに生えているのではなく随分と平地にもあるから、殊更これに山の字を加えて山ヂサと呼ぶ必要もないほどのものである。
従来我邦の学者は、このエゴノキを支那の斉墩果に充てて疑わない。小野蘭山の『本草綱目啓蒙』を始めとして皆そう書いているが、これはトンデモナイ間違いで、斉墩果は決してエゴノキではない。しからばそれは何んの樹であるかというと、これはかのオリーブ(Olive 即ち Olea europaea L.)の事である。
この斉墩果はすなわち斉墩樹の事で、それが始めて唐の段成式の『酉陽雑俎』という書物に出て居り、その書には
斉墩樹ハ波斯及ビ払林国〔牧野いう、小亜細亜のシリア〕ニ生ズ、高サ二三丈、皮ハ青白、花ハ柚ニ似テ極メテ芳香、子ハ楊桃ニ似テ五六月ニ熟シ、西域ノ人圧シテ油ト為シ以テ餅果ヲ煎ズルコト中国ノ巨勝〔牧野いう、胡麻の事〕ヲ用ウルガ如キナリ〔漢文〕
と記してある。しかしこの書の記事は遠い他国の樹を伝聞して書いたものであるから、文中にはマズイ点がないでもない。
日本の学者がまずこれを取り上げてその斉墩樹を濫りに我がエゴノキだと考定したのはかの小野蘭山で、すなわち彼れの著『本草綱目啓蒙』にそう書いてある。何を言え偉くて諸ろの学者が宗と崇むる蘭山大先生がこれをエゴノキと書いたもんだから、学者仲間に何んの異存があろうはずなく忽ちソレジャソレジャとなってその誤りが現代にまで伝わり、今日でもほとんど百人が九十七、八人位まではその妄執に取りつかれてあえて醒覚する事を知らない有様である。
それならオリーブをどうして斉墩樹というかと言うと、この斉墩樹は元来が音訳字であって、それは波斯国でのオリーブの土言ゼイツン(Zeitun)に基いたものに外ならないのである。すなわち斉墩樹はオリーブの音訳漢名なのである。そしてこの事実は我邦では比較的近代に明瞭になったもので、徳川時代ならびに明治時代の学者にはそれは夢想だも出来なかったものである。
芝居の千代萩の千松の唄った歌の中にチサノキがあるが、これはエゴノキ科のチサノキであろう。ムラサキ科のチサノキは関東地には無いから無論この品に非ざる事は直に推想が出来るが、しかし時とするとそれを間違えている人もある。
0 件のコメント:
コメントを投稿